海岸近く、虚空蔵山南麓に鎮座する。 虚空蔵山(当目山)は海の彼方から神が来訪する水平来臨型の信仰の山である。 虚空藏山の東側から東北側にかけては絶壁に波が打ち寄せている。この断崖にはいくつかの岩窟があり、これが「御座穴」とよばれている。これは神の「御座」し給う「穴」ということである。海からの神霊の依り給うところとして信仰されたもので、本社の原初信仰を考える上に重要な意味を持つものである。 はじめ鍋崎海中の神の岩に祭られていたが、大浪によりその神の岩が崩壊したため、当目山に遷つたという伝承もある。 |
那閇神社 総べて世の移り変わるは儚き者ながら那閇神社のその昔をたづぬれば、継体天皇3年乙丑4月物部氏の勧請により祭祀せられたるものと伝えられ、朝夕村人をはじめ凡く世人に崇敬せらるるは□たかなる霊験による御加護の賜と信じ疑うものなし。 昭和41年4月松下正次氏当社宮司に新任せられしを記念し、永しえに此の神域を浄め、御霊を鎮め参らせんものと、玉垣建立の議を氏子総代を初めとし、氏子一同並びに浜当目船元会・焼津漁業協同組合その他尊崇者に倶々相諮るに、□然として此の趣旨に賛同集まる処の浄財を以て総工費全79万余円、工事人、岡崎市磯部石材店に之を請け負はしめたり。昭和41年10月17日工事所期の如く竣工、同日を卜し静岡市久能山東照宮宮司白井光男斎主となり関係者一同参列厳粛且盛大裏に奉告祭を執行す。 庶幾くは深遠なる神慮は拝するも恐れ多けれど、本建立協賛者の徴意を嘉せられんことを。 茲に趣意を碑に刻み後世に遺すものなり。 昭和41年10月17日建之 社頭石碑 |
那閇神社 由緒 継体天皇三年(西暦509年)四月、物部氏の勧請により当目山に鎮斎、その後一度海中神の岩に鎮座したが、風浪の害を避けて現在地に奉遷された。 我が国の最も古い神祭の姿である、海の彼方から訪れる神を、一旦海中の島(神の岩)にお迎えし、海岸の御座穴にお祭りし、さらに姿美しい神奈美山(かんなびやま=お椀を伏せたような姿の山)に神は降臨されるという、その信仰そのままの山が当目山であった。したがって、その昔は社殿もなく、山そのものが御本殿(御神座)であった。 延喜式内社で、『延喜式』(西暦927年完成)巻九神名上に「駿河国益津郡四座並小、那閉神社」とある。 昔は年々国司が祭り、弘安四年(西暦1281年)には朝廷より奉幣があった。現在も大漁神・福神として近郷の崇敬を集めている。 旧除地は二石で明治8年(西暦1875年)2月村社に、同40年(西暦1907年)3月神饌幣帛料供進社に、大正4年(西暦1915年)5月4日に郷社に列格した。 特殊神事『浦祭(うらまつり)』 以前は旧2月14日に行われていたが、今は2月初午に末社稲荷神社の祭典と合わせ行われている。 漁業者の大漁祈願祭で、以前は鰹・鮪が山のように供えられ、四斗樽の鏡がぬかれ、たいへんな賑わいであった。 浦祭の「浦」は、もともと占いの「ウラ」で、大漁を占う祭りであった。 公式HP |
青木神社と須藤左門 青木神社には、戦国時代の武将、須藤左門が知られています。 戦国時代の終り頃、駿河(静岡)の地では武田軍と徳川軍との合戦が繰り返されていました。天正9年(1581)5月5日、浜当目殿山の青木の森(現在のサッポロビール静岡工場一帯)で、武田勢とこれを討つ徳川勢とで激しい戦いがおこりましだ。その中には、上州(群馬県)碓氷郡(安中市)から武田方の武将として加わつていた、須藤左門もおりました。勇ましくて戦いに強いと評判の須藤左門にかなう者はなく、次々と相手を倒していきます。そして、徳州勢のひとり、石川という若武者と槍を合わせることになりました。このとき石川は年も若く、初陣という初めての戦でした。戦いの経験がない石川が、須藤左門に勝てるはずもなく、たちまちにしておさえ込まれてしまいます。須藤左門はその石川を討ちとろうとしましたが、ふるさとの若い息子を思い出し、何もしないでその場を去ろうと背中を向けたとき、石川に襲われて命をおとしてしまいます。 その後石川は、天下に名高い須藤左門を討ちとつた手柄によりたいへんな出世をしますが、何代か後の石川家当主が、駿府城から屋敷に帰る途中で、続げて急に亡くなつてしまいます。そこで、きっとこれは数藤左門の崇りに違いないと考えた石川家は、その怒りを鎮めるため石の、祠を建立して祀ることにしました、それが青木神社で宝暦4年(1754)正月のことでした。 明治時代(1868〜)を迎えて青木の森も切り拓かれて田畑となったため、この祠は那閇神社境内に移され、毎年春祭りにあわせて青木神社のお祭りが行われています。 社頭掲示板 |
那閉神社の常夜燈 昭和61年9月30日 市指定 高さ約350cm。 燈籠では、焼津に現存する中で、最も規模の大きなものである。 構造は、下に三段の四角の壇をつくり、その上に獣足をまねた四本足の竿、中台、火袋の順に積み、その上に笠と宝珠を乗せている。宝珠は請花をともなっている。 下から三段目の壇に、「文政5年11月」(1822)と記されている。 この燈龍は信州高遠の石工により製作されたもので、もと浜当目村の郡倉の前にあつたが.大正年間にここに移されたと伝えられる。 平成7年3月 焼津市教育委員会 社頭掲示板 |
那閉神社 那閉は假字也○祭神事代主神、(風土記)○当目村に在す、今虚空臓と称す、(参考)例祭月日、〇惚國風土記五十七残欠云、薦河國益頭郡那閉神社、男大迹天皇3年己丑4月、所祭事代主神也、神貢三十五束三字田、 神位 國内神名帳云、正五位下奈閉天神、 神社覈録 |