飽波神社
あくなみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】飽波神社 駿河国 益頭郡鎮座
          (旧地)飽波神社【旧地】

   【現社名】飽波神社
   【住所】静岡県藤枝市藤枝 5-15-36
       北緯34度52分12秒,東経138度15分26秒
   【祭神】少彦名命 (配祀)瀬織津姫命 蛭子命 天忍穗耳命
       『巡礼旧神祠記』瀬織津比売命
       『神名帳考証』秋比売命

   【例祭】 10月4日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仁徳天皇6年(316)に創建
       戦国時代永禄・元亀の戦乱時焼失
       正徳5年(1715)杜殿再建
       明治6年3月22日郷社
       明治40年6月21日神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「川関大明神」と称していた
   【公式HP】 飽波神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所

   【境内社】金山神社・七ツ森神社

市立図書館西に鎮座する。
大和国平群郡飽波郷を本貫とする帰化人の一族が移住してきて創立したか。
境内に「湧霊の庭」と称し丸石が多数置いてある。


飽波神社

延喜式内 
飽波神社参拝のしおり
延喜式内 飽波神社(川関大明神)
鎮座 藤枝市藤枝5丁目15-36
1.御祭神 少彦名命
相殿   瀬織津姫命
     蛭子命
     天忍穂耳命
2由緒
飽波神杜は古墳時代、第16代仁徳天皇6年戌寅10月飽波郷(旧藤枝一円)の鎮護の神としてお祀りした、古い歴史を経た神社であります。 御祭神は少彦名命と申しあげ、大国主命と共に国を開き、産業を奨めて、医薬の術を教え、人々に知恵を授け、幸福をもたらして下さる、御神威の高い神様といわれ、崇敬されております。
戦国時代(1560年)永禄・元亀の戦乱時、武田の兵が乱入し、杜殿、旧記録などを焼失、時の神宮、曽根彦八貞家が御神体を護持して難を逃れ、小祠を建ててお祀りした。
以来、江戸時代に入り、正徳5年(,1715年)に杜殿を再建したと伝えられています。
歴史に示される「正徳の治とは」徳川6代将軍家宣(1709年)は、儒者新井白石を登用し政治を改めさせた。白石は儒教の徳治主義を理想とし文治政治をすすめ、典礼、儀式なども整え、善政を行った。この時代に飽波神杜も再建されたことが推測される。〉
当時、山裾の小石のまわりから清らかな水がこんこんと湧き出ており、諸病に霊験があったと伝えられ、人々に命の水を恵み、瀬戸川の水害からも護って下さることから、飽波神杜、湧波神杜などともいわれ、崇敬されてきました。
正徳5乙未年造建の棟札に「飽波神杜川関大明神」と記載され保存されております。時代の変遷を経た今日に至るまで、歴史の流れが示していると申しあげられます。
明治6年3月 郷社に列せられる。
明治40年6月 幣帛、供進社に指定される。
昭和6年8月 拝殿、神具、狛犬等に至るまで、氏子崇敬者によって造建奉納され現在に至る。
昭和49年9月 社務所及び湧波の池など、境内整備が氏子崇敬者によって造建奉納される。
昭和59年10月 神具(御輿等)格納庫及び拝殿右側に擁護壁を建設する。
昭和62年10月 第一鳥居よりの参道建設、第一次計画に着工する。
平成2年10月 天皇即位の礼記念事業として、氏子崇敬者の奉納金並びに神社積立金にて幣殿建設。内装神具等新調される。
3.延喜式内社のいわれ
平安時代の延喜年間(901年)祭事優先の伝統が守られ、社格制度、儀式などが整備されました。
延喜式の神名帳に登載されている約3,000社(式内杜)には、祈年祭に必ず神砥官が国司を通じて幣帛を奉ることになっていました。
飽波神杜も社格ある神社として、延喜式内神名帳に登載され、祈年祭など年間の儀式は今日に至るまで、その伝統を守り、神威をかしこみ、神恩に感謝し、次の恒例祭をもって、祭祀につとめております。
4.飽波神社恒例祭
1月3日 歳旦祭
2月ll日 紀年祈年祭、春祭(五穀豊穣祈願)
           建国記念日
4月吉日 献茶祭(茶業発展祈願、茶業関係者、手揉保存会、茶道各流派、共祭)
6月30日 大祓式(夏越の祓い、罪やけがれを祓い清める茅の輪くぐり)
10月第一吉日 例祭(秋祭り、御輿の渡御、武者行列、3年目毎に山車12台による盛大な秋祭り)
11月15日 七五三祝(産土神に成長の感謝と祈願)
11月23日 新嘗祭(新穀を供えて感謝祭)
12月31日 大祓式、除夜祭
毎月始め月次祭 国の平和と氏子崇敬者の安全祈願
境内社 例祭 金山神杜、七つ森神杜、例祭
その他祈祷 初宮詣(出産後男児31日、女児33日)
七五三祝、結婚式、地鎮祭、交通安全、進学、厄除祈願
神杜は、人々の心のよりどころです。御神徳の御加護を祈願するのは、誠に麗しい日本人の伝統的風習となっております。
参拝は、二礼、二拍手、一礼の作法をもって祈願します。
5.飽波神社の森(ふる里の森)
飽波神杜の神域は9,273uで、通称「岡出山」と呼ばれ市街地に囲まれている丘陵地で、杜殿の森はスダシイを主とする照葉樹林であり、スダシイ、クス、ヤマモモ、ミミズバイ、アラカンなどの低木層と共に形成されています。
市街地に存在する照葉樹林は貴重であり、子孫に残すべく、昭和60年3月、静岡県選定「ふる里の森」百選の一つに指定を受け、その保存につとめています。
6岡出山公園
神杜の森の上層部は・藤枝市岡出山児童公園として管理されています。また、日清、日露戦争、第二次大戦における戦死者の忠霊碑があり、春の桜、秋の紅葉、市街地の見晴らし、あるいは日の出の眺めなど、市民の憩いの場であります。
山続きには、宝招稲荷、天満宮、大井神杜と祭祀されており、神社の森にふさわしい環境にあります。
公園は、氏子である岡出山公園保勝会の勤労奉仕で整備保存が続けられております。
飽波神杜の参拝をかね、散策されることをお奨めいたします。

社頭掲示板



飽波神社

延喜式内 飽波神社 (川関大明神)
御祭神 少彦名命
相殿 瀬織津姫命 蛭子命 天忍穗耳命
由 緒  当神社は古墳時代第16代仁徳天皇6年10月(西暦316年)飽波郷(旧藤枝一円)の鎮護の神としてお祀りされた志太平野で最も 古い伝統のある神社です。
 御祭神は少彦名命と申し上げて、大国主命と共に日本の国を開き産業を進め、医薬の術を教え、人々にさまざまな智恵を、お授け下さるなど幸福をもたらす神様です。
 昔この山裾の小石のまわりから清らかな水がこんこんと湧き出て諸病の霊験があったと伝えられ人々に命の水を恵み、又瀬戸川の水害から護って下さることから川関大明神とたたえられ沸波神社とも称せられました。
例 祭 10月第一土曜日 例祭
  同 日曜日 神輿渡御(武者行列)
大 祭 三年目毎 13台の山車で賑う
延喜式内とは  平安時代初期(延喜年間西暦901年〜 922年)に制定された延喜式神名帳に記載されている古い格式の高い神社の事です。

社頭掲示板



湧霊の庭

作者 杉付孝
飽波神社の(飽波)は昔湧波と呼ばれ、比の山すその石のまわりから霊水がこんこんと湧き出で、諸病や災難から人々を護って下さったことから名づけられたと伝えられます。
この(湧霊の庭)も同様の意味をもって居ます。丸石はタマ石とも呼ぼれますが、このタマは、玉で有り(魂)で有り(霊)で有りそれ故丸石はタマシイの入れものであるといわれます。
丸石に願ひをこめて祈願して下さい。
昭和58年6月吉日
飽波神社

社頭掲示板




飽波神社

第16代仁徳天皇6年(西暦318年)戊(つちのえ)寅(とら)10月、飽波郷(旧藤枝一帯)の鎮護の神として祀られた志太平野最古の社で、延喜式神名帳にも駿河國益頭群飽波神社の名があります。
当時、境内の山裾の小石の周りから清らかな水がこんこんと湧き出ており、諸病に霊験があったと伝えられ、人々に命の水を恵み、近くを流れる瀬戸川の水害からも護ってくださることから、湧波(わくなみ)神社 川関(かわせぎ)大明神(だいみょうじん)とも称され崇敬を集めてきました。
境内地、社領とも広かったと推測されますが、戦国時代、永禄・元亀の戦乱時、武田勢が乱入し、社殿・旧記録などを焼失。時の神主 曽根彦八家定が御神体を守護して難を逃れ、兵乱が治まると山下に小祠を建てお祀りし、その後江戸時代に入り正徳5年、現在の地に社殿が再建されたと伝えられています。
江戸時代社領除地高三石四斗。 明治6年3月 郷社に列せられ、明治40年6月には幣帛供進社に指定されました。
近年では“あくなみさん”と呼ばれ、藤枝のみならず多くの人々に親しまれています。また三年に一度の『藤枝大祭り』では、長唄による地踊りが奉納され、大変な賑わいをみせます。

公式HP



飽波神社

飽波は阿久奈美と訓べし、和名鈔、(郷名部)飽波、(仮字上の如し、但在上下)○祭神少彦名命、(風土記)○益津村に在す、今川關神ど称す、(参考)例祭月日、○惣國風土記五十七残欠云、駿河國益頭郡飽波神社、大鷦鷯天皇6年戊寅10月、所祭少彦名神也、神貢八十二丸三字田、
神位
國内神名帳云、正四位下飽波明神、

神社覈録



郷社、飽波神社

祭神 少毘古那命
相殿 瀬織津比売命 蛭子神 天忍穂耳命
旧と川関大明神とも称す、創立年代詳ならず、但し、当社は延喜式所載の飽波神社なりといふ、飽波神社は、延喜の制小社に列せられ、諸郡神階帳に、「正四位上飽波神社益津郡坐」と見えたり、元と山麓に鎮座あらせちれしが、中古今の地に奉遷せりと、正徳5年の棟札を蔵す、云く、「益頭郡益頭荘飽波神社、川関大明神」と、社領は往古若干を有せしが、永禄、元亀の乱に失ひたりと伝ふ、然れども、幕府時代は除地高三石四斗たりき、明治6年3月郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿を備へ、境内は672坪(官有地第一種)あり、境内地付近に神木と称する松樹あり、四擁許ありと、当社が式の飽波神社なることは、既に學者の定説の如くなるが、或説に益津郡花澤村高草山法華寺の縁起に、「式内飽波神社は当山上にあり、祭神水分神也」とあり、同寺の背後の山を高草山と称す、盆頭有度両郡に跨り、是古の鉋波山なるべしとの説も見えたる山なるが。絶頂平垣なる地あり、俗に権現平と称し、近世迄小社ありしが、今は礎を存すと、此地若し社地とする時は、神名帳順次にも叶ひ、又類聚國史に、
「孝徳天皇大化3年丁未春、令阿倍大臣蒐舜河國益頭郡飽波山鳥獣、以千級算之、神官負幣出神饌、歎為穢汚、列卒不聴之、終告阿倍大臣、故止之、其夜有小狐、入阿倍之夢、贈兼金三百円、帰官奏之、後永停神山之猟、云々」
と見えたるにも、よくかなへりと、地名辞書亦、「高草山は飽波山なるべく、随つて、飽波神社は川関神社にあらざるべし」といへり。後考を侯つ。
尚当社を飽波神社、及川関神杜の両社とするあり、又同社とするあり、其の間甚だ曖昧たり。

明治神社誌料



駿河国INDEXへ        TOPページへ



順悠社