郷社であった二所神社と、村社であった山田神社が明治40年に合併し、現社名となった。 山田神社は文徳実録の元慶2年6月23目條にみられる国史現在社である。 当社で有名なのはおみくじである。北海道から沖縄まで全国のおみくじの大半がこの神社で作られている。21代目の宮本重胤宮司が神道教化の雑誌「女子道」発行費用におみくじ作りを始め、明治39年に我国最古の自販機、おみくじ販売機を開発する。現在22代目の宮本清胤宮司は現在流行のマイコン応用で、硬貨を入れると灯ろうに灯がつき、音楽が流れ、おみくじの出る新型を開発した。 おみくじの方も、和歌を詠み込、神の教えを加えて、大吉から末吉の5つの運勢が書いてある。今は不運でも将来は必ずよくなると願いをこめて、「凶」の代わりに「末吉」を用いている。 |
由緒 当神社は明治40年(1907)8月、二所大明神と山田権前社を合せ祀り、社号を二所山田神社と改称したお社で、旧郷社であります。二所大明神は、昌泰2年(899)に鎮座され、旧毛利藩時代は、御祈祷所の格に列せられていました。山田権前社は、天治2年(1125)伊勢国(三重県)山田郷より御勧進申しあげ建立されたお社であります。従って二所山田神社は伊勢の内宮、外宮の大神様と出雲大社の神様が合わせ祀ってあるわけです。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
二所山田神社 御祭神 天照大神・豊受大神、大国主神・八千矛神 当神社は、明治40年(1907)8月、二所大明神と山田権前社を合せ祀り、社号を二所山田神社と改称したお社で、旧郷社であります。 二所大明神は、昌泰二年(八九九)に鎮座され、旧毛利藩時代は御祈祷所の格に列せられていました。山田権前社は、天治二年(千百弐五)伊勢国(三重県)山田郷より御勧請申しあげ建立されたお社であります。従って二所山田神社は伊勢の内宮。外宮の大神様と出雲大社の神様を合せ祀ってあるわけです。 社頭掲示板 |
二所山田神社 このお宮は、明治40年(1907年)、二所大明神と山田権前社を合せて祭り、お宮の名も二所山田神社としたものです。 二所大明神は、今からおよそ1080年も前からあるお宮で、祭神は、八千矛神・大物主神の二神です。 山田権前社も、今からおよそ1100年前のお宮で、伊勢の国(三重県)山田郷より勧請したものといわれています。祭神は、天照大神と豊受大神の二神です。 このお宮の境内にある菅原神社の夏祭りは有名です。御神幸や網代に奉仕する裸坊、大行司・小行司、大名行列、長持ち行列などが列をつくってにぎやかです。 中でも、子供の引く「ドロ」は、他の地方では見られない地方色豊かな行事です。 社頭掲示板 |
二所山田神社 当神社は、明治40年8月に、 二所大明神と摂社山田権前社が合祀し「二所山田神社」と改称したお社です。(明治に近隣村々の総氏神として郷社に指定される) 「二所大明神」 弘長二年(鎌倉1262)、宮司藤原朝臣宮本重本の記す縁起の中に、当社は昌泰二年(平安前期)に鎮座したとあります。元享元年(鎌倉時代)には大内弘世の崇敬厚く社坊月輪山善居院が創建されました。また西国の雄として君臨した毛利家の保護のもとに本家の御祈祷社の格に列せられ、宮司は、藩主に年始のお目見えが許され、毛利家年回法会に焼香することが定められていました 「山田神社」 古くは山田権前社と称していました。伊勢国山田郷より伊勢神宮の御祭神を勧請しました。当社は、国家的事業で朝廷が平安前期に編纂した歴史書(三代実録)に記載されている「国史現在社」で.元慶二年(878)周防国山田ノ神に従五位下を授く"と記載されており、朝廷から神位階を賜わった歴史のある御神徳の高い神々がお鎮まりです。 【御祭神】 天照大御神 あまてらすおおみかみ (伊勢神宮内宮の祭神・皇室祖神日本国民と国家の幸福を願う神) 豊受比売大御神 とようけひめのおおみかみ (伊勢神宮外宮の祭神、日本の生産と食の神様であり稲の豊穣を願う神) 大国主神 おおくにぬしのかみ (出雲大社の祭神、国土経営、.縁結び、国家守神と、御神徳の多い肺臓鱒、役割によって鵡伽兼袖、八千犬神など種々の御神徳を有す) 宮司家の女性運動 当神社には、天照大御神・豊受比売大御神と、御神徳の高い女神がお鎮まりです。明治の頃は「男尊女卑」の風潮が強く、女性は、特に神仏に近づくことはタブーとされていました。明治期に当神社の宮司であった宮本重胤とフジ子は、神道には本来、女性を卑しむ思想はなかったと論拠を示し、女性も神に近づき御奉仕すべきと主張しました。批判の高まる中に、神社界では初めての、女性を対象とした全国組織「大日本敬神婦人会」を結成し、女性神官登用運動、女性参政権、女性の自立などの主張を展開しました。全国各地に支部が結成され、遠くは米国ロサンゼルス、オアフ島、朝鮮にも活動拠点が置かれました。また「神前結婚式」「おみくじ」を全国に普及したことは余り知られていません。このような運動を支えた資金源が実は「おみくじ」の収入だったようです。 菅原神社 菅原道真公(学問の神、立身出世の神、農耕の神)当社は、大島郡の天満宮が火災の被害をうけた折、宝永七年(1710)に、鹿野に奉祀したことが記録にあります。古くは「天満宮」と称していましたが、明治六年に菅原神社と改称しました。しかし、今日でも鹿野の人々は親しみをこめて「天神さん」と称しています。七月三十日を祭日として、この夏祭りは鹿野では最も人の集まる行事で、御神幸、大行司、小行司、網代牛、子供ドロ、長持、奴行列、裸坊の奉仕する網代は勇壮で、この祭礼日には鹿野全体が熱気につつまれます。 公式HP2012.11 |
二所山田神社 二所山田神社の由緒 当社は明治40年(1907)に、二所神社(旧二所大明神)と山田神社(旧山田権前)を合祀して、社号を二所山田神社(ニショヤマダジンジャ)と改めました。二所神社は、出雲大社の神々を歓請したものと伝えられ、山田神社は、伊勢神宮の神々を歓請したものといわれています。 二所神社の由緒 二所神社は社伝によると、平安時代の昌泰2年(899)、渋川石船に鎮座していたものを、鎌倉時代の弘長2年(1262)、亀竜山に移転し、江戸時代の延宝2年(1674)に「宮床に遷す」とあります。 鎌倉時代の元亨元年(1321)大内弘幸は当社の社坊として、月輪山善居院を開基しています。 『八ヶ国分限帳』に「一七石三斗一升賀野両社」と記されていますが、両社とは二所神社と山田神社のことです。 また、毛利藩時代には御祈祷所の格に列せられ、大歳越節分の三ヶ日御祈祷を行い、神主は年始のお目見得及び年回法要の焼香を許されたと伝えられています。 その由緒をもって、明治9年(1876)に郷社に列せられました。祭神は八千矛神と大国主神の二神です。 山田神社の由緒 山田神社は、『寺社由来』に「文治2年(1186)伊勢国度会郡山田郷より勧請、大内弘盛が建立した」とあります。『三代実録』の元慶2年(878)6月23日に「周防国山田ノ神に正六位上より従五位下を授く」という記載があるのは、当山田神社のことであるとする説もあります。また『防長地名淵鑑』によると、『日本地理志料』に山田郷を掲げ、鹿野村を郷域としています。 『和銅三年紀』(710)に「周防守山田史御方あり。鹿野村山田権前社は、山田氏の祖神を祀るなりといえり」とあって、二代目周防守山田見方の創建になるともする説もあります。江戸時代の享保12年(1727)、「社殿が新営された」と記録にありますが、同所は現在地の東に寄ったところにあったと伝えられています。明治12年(1879)に村社に指定されました。二所神社と合祀されて二所山田神社となったあとは、郷社に指定されました。祭神は天照大神・豊受気毘売神の二神です。 公式HP2019.05 |
二所山田神社 当社は明治40年(1907)に、二所神社(旧二所大明神)と山田神社(旧山田権前)を合祀して、社号を二所山田神社と改めたものである。二所神社は社伝によると、平安時代の昌泰2年(899)、渋川石船に鎮座していたものを、鎌倉時代の弘長2年(1262)、亀竜山に移転し、江戸時代の延宝2年(1674)に「宮床に遷す」とある。『寺社由来』に「式内二所二俣社棟札」という記載があり、式内社とある。しかし、『延喜式神名帳』には当社の記載はない。このことから、広本茂夫氏は、周防十座のうちの二俣社(徳山市大向)と、何らかの係わりがあるものと推測されている。鎌倉時代の元亨元年(1321)、大内弘幸は当社の社坊として、月輪山善居院を開基している。『八ヶ国分限帳』に「一七石三斗一升賀野両社」と記しているが、両社とは二所神社と山田神社のことである。また、毛利藩時代には御祈祷所の格に列せられ、大歳越節分の三ヶ日御祈祷を行い、神主は年始のお目見得及び年回法要の焼香を許されたといわれる。その由緒をもって、明治9年(1876)に郷社に列せられている。山田神社は、『寺社由来』に「文治2年(1186)伊勢国度会郡山田郷より勧請、大内弘盛が建立した」とある。『三代実録』の元慶2年(878)6月23日に「周防国山田ノ神に正六位上より従五位下を授く」とあるは、当山田神社であるとする説もある。また『防長地名淵鑑』によると、『日本地理志料』に山田郷を掲げ、鹿野村を郷域とする。『和銅三年紀』(710)に「周防守山田史御方あり。鹿野村山田権前社は、山田氏の祖神を祀るなりといえり」とあって、二代目周防守山田見方の創建になるともする説もある。江戸時代の享保12年(1727)、「社殿が新営された」と記録にあるが、同所は現在地の東に寄ったところにあったと伝える。明治12年(1879)に村社に指定されている。二所山田神社は郷社。 山口県神社庁 |