周方神社
すわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】二俣神社 周防国 都濃郡鎮座

   【現社名】周方神社
   【住所】山口県周南市長穂1303
       北緯34度8分15秒、東経131度50分14秒
   【祭神】建御名方命 大物主神 八千矛神
   【例祭】4月23日 例大祭 10月23日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】雄略天皇8年(464)長田に鎭座
       天安2年(858)3月預官社
       貞観9年(867)8月16日正五位下
       文禄年間(1593−96)社頭炎焼
       元禄2年(1689)再建二社を合祀
       明治4年周方神社と改称
       明治7年2月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】雄略天皇8年(464)長田に鎭
        のち宮原の亀山へ移転
        元禄2年(1689)現在地の周方神社に合祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造銅葺
       幣殿・拝殿

   【境内社】亀山神社・厳島神社・恵美須神社

周方社は出雲国から建御名方命の霊を分かち、当村字下莇にこれを祀り、のち同村字長田に、更に現社地に転じた。一方、二俣神社は雄略天皇8年(464)に大物主命・八千矛神を長田に鎮座したが、土地が狭くて不便であったため、のち宮原の亀山へ移転した。しかしこの社地も狭くて祭礼に不便であるため元禄2年(1689)現在地の周方神社に合祀した。


二俣神社

第二節式内社二俣神社
都濃郡の式内社
式内社というのは、延長5年(927)に編纂された「延喜式神名張」第九・第十の両巻に登載された神社のことである。これらの諸神は国家的祭祀に預かるとともに、祈年祭に当たっては朝廷から幣帛や施物が下されるなど、国からの保護を受けたから、式内杜はすべて官社である。このうち神砥官奉幣の社を官幣社と言い、国司奉幣の社を国幣杜というが、これにはそれぞれ大社・小社の別があった。その総数は祭神にして3132座、社数にして2861処ある。周防国は10座・8処あって、すべて小社である。その内訳は熊毛郡に一座、佐波郡に六座・四処、吉敷・都濃両郡に各一座ずつある。都濃郡の一座が二俣神社である。およそ古代社会では、氏子たちが一つの氏神を共同に祀ることによって、初めて村落社会の一員であるという自覚を強めたと思われるから、氏神は村落の精神的紐帯であった。ただし、厳密に言えば、氏神を大豪族の氏族神と、庶民の産土神・鎮守神に分けることができようが、いずれにしても、地域社会全体の神であるという本質はいささかも変わりはないのである。したがって、付落には必ず一つ以上の神社が祀られていたのである。奈良時代の村落を具体的に記載したものは甚だ乏しいが、平安時代になると、「延喜式」の編纂時期と同じ延長年間(923〜30)に源順が著した『和名類聚抄』によって、当時の村落名を知ることができる。それによると、周防国は四五郷(高山寺本では三六)、うち都濃郡は七郷(同上五)であるから、周防国全体としても、また都濃郡に限ってみても、式内社の設置数は五郷に一社程度となる。ちなみに、これを全国的にみると三郷に二社程度、畿内では一郷に三社、東日本では三郷に二社、西日本では一郷に一社程度である。
て、二俣神社に関する記事は、天安2年(858)3月13日に官社に預かったこと、それから9年を経た貞観9年(867)8月16日に従五位上から正五位下に昇叙されたことの二点である。二俣神のような地方の神社が官社になる手続は、神社が官社に預かる理由が認められて勅許が得られると、太政官は諸国に対してこれを「国社帳」に記載せしめることによって終了するのであるが、六国史に散見する「預官社」の記事では、ほとんどその理由が省略されている。二俣神の場合もその理由は明記されていない。二俣神が正五位下を授与された貞観年間は、前掲表においても神階授与が頻繁にみられるが、全国的にみても、承和期から貞観期に至る平安時代前期は、それが最高潮に達した時期であって、この傾向は官社の急増する時期とも一致している。「延喜式」が弘仁・貞観両式の集大成といれれるように、式内在もまた弘仁・貞観両式内杜の集大成が延喜式内杜である。すなわち弘仁11年(830)に録上された「弘仁式神名張」に記載された弘仁式内社が神格を中心としたのに対して、貞観13年(871)に録上された「貞観式神名張」に登載された貞観式内杜は、嘉祥4年(852)以後、神社が官社になるときは少なくとも従五位下以上であることとした同年正月27日の官符に基づいている。その基準は延喜式内社においても同様であるが、式内社の総数は貞観式内社をもってほぼ終了したと見なされている。
前掲表中の神名のうち、式内社の記載順は「延喜式神名張」の配列に従ったものである。その頭部の「貞」の標語は、武田本によるもので、貞観式内社を指すことは既に述べた。したがって、「貞」の標記のある二俣・仁壁・剣の三神が貞観式内社であることはいうまでもないが、「貞」の標記がない佐渡郡の三神と、熊毛郡の二神は弘仁式内社の可能性がある。少なくとも佐波郡の玉祖・出雲・御坂の三神と、熊毛郡の熊毛神は天平年間に既に祭祀料など、国家の保護を受けていることからみて間違いあるまい。
二俣神社の鎮座地
二俣神に関する記事は、極めて少なく、中世においてもほとんど徴すべき文献がないため、近世にいたって二俣神社と称する神社が三社現れる。すなわち、(A)徳山市大字大向の二俣神社、(B)同大字長穂の周方神社、(C)鹿野町大字鹿野上の二所山田神社がそれである。
幕末期の医者で、国学の造詣が深く、歌人でもあった松岡経平(1800〜86)は「周防国式内神社考」(『神砥全書』五所収)で、「此御社、式に因りて考えれば、都濃郡にあるぺし、今都濃にはなし、吉敷郡二股村に二股神社あれども、地理いたくたがへり」と述べて、その所在地を不明としているのは不審である。恐らく、『寺社由来」や『風土注進案』を参照しなかったのか、あるいは(A)(B)(C)の三社に関する入り組んだ記述に混乱したかのどちらかであろう。『神祇志料』(1872年)、『特選神名牒』(1877年)は共に(A)を記し、(B)(C)についての記載はない。また、『大日本地名辞書』や『防長地名淵鑑』においても同様である。さて、三社は共に錦川流域にあって、(A)を挟んで、ほとんど等間隔に南に(B)、北に(C)が位置している。(A)は天正19年(1591)9月23日の「二俣神社本記之写」によると、成務天皇の御宇、二俣山に大物主神・八千矛神・稲田姫命の三神を安置して以来、代々仲子氏が宮司を勤めたと言い、夏に「神影地より考るに、先東に金峰山、其高サ二十町余、三峰高円にして、両嶺は二俣神社の式地、宝良日出山と名付、此一峰の脇常磐の滝、此滝の内より清水出る。是を号て滝ノ明神といへり。又二俣宮真名井の水とも号く」とあるから、社殿の前方を北から南へ貫流する錦川を越えて、ちょうど真東に当たる金峰山には奥宮があったのであろう。検札によると、長享3年(1489)4月16日、大内弘武が神殿を建立したほか、慶長12年(1598)11月10日には毛利輝元が、同18年には赤川筑後守がそれぞれ一字を建立している。更に元禄元年(1688)10月吉日に毛利元賢が鳥居一基を、同13年4月16日には毛利元次が社殿を建立している。明治以後の社格は郷社である。(B)の周方神社は、『風土注進案』所収の杜伝によると、出雲国から建御名方命の霊を分かち、当村字下莇にこれを祀り、のち同村字長田に、更に現社地に転じたのである。一方、二俣神社は雄略天皇8年(464)に大物主命・八千矛神を長田に鎮座したが、土地が狭くて不便であったため、のち宮原の亀山へ移転した。しかし、当社は長穂・鹿野・大向に至る広大な地域を氏子にしているため、この社地も狭くて祭礼に不便であるため、このとき鹿野・大向へも勧請させたものだとしている(神主家伝書)。
貞享2年(1685)8月20日の神主家旧記に「周方国都濃郡一座之神社、長穂村宮ノ原と申所に、従古来御社弐有之候」とあるから、このころまで、二俣神社は独立していたと思われるが、これが周方神社の相殿として合祀されたのは、元禄2年(1689)の再建の棟礼に「二俣周方両大明神宮」と記されているところからみて、元禄2年以後のことであろう。なお、明治4年に周方神社と改称し、同7七年2月に郷社に列せられた。(C)は、弘良2年(1262)、大宮司藤原重本が著した「社録写」によると、「此神之本縁奉考、人王六十代醍醐天皇昌泰二己未正月午ノ日察始、是則二所二俣神社と号ス、社草創星霜経たり、後世に至りて無知人侍り、今幸二同郡大向村式内一座神相分神祠敬之」とあって、昌泰2年(899)正月、八千矛神・大物主神を鹿野村石船に鎮座したが、いつしか忘れられたので、改めて大向村の二俣神を勧請したが、この社もまた老朽化したため、弘長2年(1262)に再建されだというのである。しかし、天文19年(1550)4月19日の棟礼によれば、「翼奉修補二所大明神霊鑑宝殿一字、夫以当社草創は本朝八十九代亀山院御宇、弘長弐年壬戌年他」とあって、弘長2年は創祀のときである。これより文安5年(1448)に至るまで四度、更に文明16年(1484)・永正10年(1513)・天文19年(1550)にそれぞれ修造したとある。『山口県風土誌』は弘長2年に再建したとき古宮床に移転し、更に現在地に移った時期は延宝2年(1674)であるとしている。なお、明治40年に先述の式外社山田神社を合祀して、二所山田神社と称して現在に至っている。以上、三社のうち史料のうえでは長享3年の棟礼写をもつ(A)が最も古く、長享期から元禄期にいたる棟札に共通して二俣神社と記されていること、さらに所蔵品に鎌倉期とみられる懸仏をもっていることなどから、他の二社に比して創建期は古いと言えそうである。(B)は貞享2年の「神主家旧記」に、文禄年間に社殿が焼失したために、伝来の記録類はいっさい喪失したとあるから、これより以前に存在したという確証もないのである。特に周方神社と二俣神社の社伝は、内容が重複混乱している箇所が随所に見られるところから、周方神社の社伝を基にして、後世に二俣神社の社伝を付会したものではないかと思われる。(C)は弘長2年の「社録写」に創祀期を昌泰2年とするが、すでに天安2年官社になっているのであるから、これが誤りであることはいうまでもない。同書に大向の二俣神社から勧請したと記しているところからみて、社録が書かれた時期はかなり時代が下るとみなければなるまい。したがって、消去法的方法からすれば、(A)の可能性が大きいと思われる。
二俣神社の官社化の理由
都濃郡に置かれた二俣・比美・山田三神のうち山田神については、その鎮座地が大島郡ではないかという異説があることは、前に述べたとおりであるが、ここでは通説に従って都濃郡としておく。とすれば、都濃三神は、いずれも官道が通ずる沿岸部にはなく、山間部の錦川上流域にあったことになる。この地域は大化改新後、国造時代の都努国の遣名を冠した都濃郷が設けられ、その郷内には郡家がおかれたから、郡の中心部として、比較的早くから開発が進められたところである。当時の都濃郷の範囲が現在のどの地域にあたるかは、第五章において述べたように、旧都濃町のうち須々万本郷・須々万奥・中須南・中頃北・須万の一帯と考えられているので、都濃三神のおかれた大向や鹿野町は都濃郷ではないことになる。従来から都濃五郷の地域比定のうち、大向から鹿野にいたる錦川最上流域の一帯は、所属郷が分からぬまま宙に浮いているところである。ただ「日本地理志料」は和名類聚抄の記載から脱落したものとみて、大向周辺を二俣郷、鹿野周辺を山田郷と推定している。社名を郷名とした根拠は、古代社会では自然神を祀ることが一般的であって、その社名は鎮座した地名を冠することが多いからである。この推論の当否は後の考証にまつとして、たとえ都濃三神の鎮座地が都濃郷でないとしても、錦川の同一水系に集中していることは、歴史的経緯からみて十分納得できることである。それでは、三神のうち二俣神だけが官杜に昇格した理由は何であったであろうか。貞観式内社の要件は従五位下以上であったから三神はともに条件を充たしているのであるが、前掲表からみる限り、貞観式の成立後、正六位上から従五位上に昇叙したものは、すべて官社化から徐かれている。したがって、山田神の場合は位階の低さに原因があろう。いま一つの比美神の場合は、貞観式の成立以前に正五位上から従四位下になっており、しかも同日、同じ神階を叙された熊毛・佐波面郡の三神が、すべて官社になっていることに加えて、神階では二俣神よりも高いのであるから、官社に昇格できなかったことの方がむしろ不思議である。佐波郡の二神は国衙の所在郡にあったから、政治的配慮も加えられたとみるぺきであろうが、熊毛郡の石城神は山上に創祀されたという点で、比美神とよく似たところもある。しかし、石城神は瀬戸内航路を眼下に眺望できる石城山にあったから、奈良時代から平安時代にかけて、しばしば悪化する対鮮交渉に際し、異族調伏のために重視されたと考えられる。これに対して、比美神を祀る秘密尾のある錦川流域の山岳部における本来の政治的意義は、平安初期にはほとんど失われていたのであろう。ところで、神階の点で比美神よりも低い二俣神が官社になったのはなぜであろうか。神階が要件でないとすれば、神社の立地条件と、それが都濃郡にある以上、都努氏との関係を考えざるをえない。とすれば、都濃三神のうち平野部にあって、しかも郡家の所在地に比較的近い地域に鎮座しているのは二俣神社である。あえて憶測すれば、大化以前、すでに紀氏と同族の都努氏の氏神として祀られていた二俣神は、大化後に新しい行政区画としての郷が置かれ、都濃郷の郷域ではなくなりはしたが、国造の系譜をもつ郡司一族との関係はそのまま維持せられ、特に都努氏の地盤である錦川上流域一帯の農業神として、在地の厚い信仰をえていたからではないだろうか。ちなみに、社名の由来が社地の前を北から南へ貫流する錦川本流に注ぎ込む吉川という支流(向道ダムの完成後、一本になっている)の分岐点に鎮座していたことによると思われるのも、水を生命とする農村の自然神をうかがわせるのである。

山口県史



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