『仁壁神社鎮座考』では味耜高彦根命が主神、下照姫命が相殿神で、住吉三神は合祀されたものと記されている。他に、下照姫命が主神で、他の四柱が合祀されたものという説もある。 上代には今の社地から東北へ二十町余り離れた所(殿山山麓に住吉様と呼ぶ小祠があるあたりで、宮の前と呼ばれる門名の家もある)にあったと伝えられている。 |
由緒 仁壁神社の創建は崇神天皇の御代7年(前91)天地地神戸を定められた時に、当社にも『御封を寄せ給い宮野庄もなべて当社の御封なり』と記されている。また、『文徳実録』に嘉祥3年(851)正月27日の条に天皇即位にあたり従五位の神階を授かり、貞観9年(867)従四位下に昇叙されている。『延喜式神名帳』(927)にも周防国吉敷郡の小一社として記載され、祈年祭には国幣に領り式内社に列せられる。その後度々増階され建久6年(1195)に正三位となる。 『周防国宮荘立券文』上司家文書建久6年(1195)宮野庄仁戸の社(仁壁)の旧祉、神領の田畝数々と記載され大内矢田に仁戸田の地名があり、当社の神田神戸であった事を伺うことができる。 古来三の宮様と呼ばれているのは大内義興公が明応6年(1494)に一の宮右田玉祖神社・二の宮徳地出雲神社・三の宮宮野仁壁神社・四の宮吉敷赤田神社・五の宮朝田神社へ戦勝報告に五社詣された故事による。 神社の鎮座されている地番は「山口市大字宮野神織機」であり古くから農業や養蚕・織物が盛んであり交易も頻繁に行なわれていたのではと御祭神様からも伺う事が出来る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
仁壁神社 仁壁神社本殿 昭和52.11.11県指定 仁壁神社の創建年月は不明であるが、文徳実録・三代実録などの正史や延喜式神名帳にその名が見える古社である。長治元年(1104年)宮の前の旧地から現地へ遷座したという。古くから周防三の宮と呼ばれている。 明応6年(1497年)大内義與は九州の戦陣から帰り、五社参拝をした。五社とは、防府右田の玉祖神社・徳地の出雲神社・この仁壁神社・さらに吉敷の赤田神社・大歳の朝田神社をいう。この参拝の順に一の宮、二の宮……というふうに呼んでいる。 永禄12年(1569)大内輝弘の乱の時焼失したが、程なく毛利輝元によって再興された。その後正徳2年(1712年)にまた焼失したので、享保5年(1720年)重建された。現在の社殿がそれである。 なお、当神社には「慶長13年2月吉日新見作」という刻名の獅子頭がある。慶長13年は江戸時代初期(1608年)にあたり、山口市の有形文化財に指定されている。 社頭掲示板 |
仁壁神社 社伝によると、大和時代の崇神天皇の卸代7年(前91)までさかのぼることが出来る。しかし文献「文徳実録」には社格として平安時代の嘉祥3年(850)従五位に、貞観9年(867)従四位下に昇叙された記録を見ることが出来る。 「延喜式神名帳」(927)にも、式内杜として「周防国吉敷郡の小一社」と記載されている。鎌倉時代の建久6年(1195)の「周防国宮野荘立券文」に、宮野庄仁戸の社(仁壁)に神領のあつた事がうかがえる。明治6年に県社に列せられる。 当神社は衣・食・住に関係する神様をお祀りしており、家内安全、交通安全など生活全般に至る御加護を戴ける神社である。 社頭掲示板 |
仁壁神社 社伝によると、大和時代の崇神天皇の御代にまでさかのぼることができる。しかし文献『文徳実録』には、社格として平安時代の嘉祥3年(850)従五位に、貞観9年(867)に従四位下に昇叙された記録を見ることが出来る。『延喜式神名帳』(927)にも、「周防國吉敷郡の小一社」と記載されている。鎌倉時代の建久6年(1195)の『周防国宮野荘立券文』に、宮野庄仁戸の社(仁壁)に神領のあった事がうかがえる。室町時代の永禄12年(1569)、大内輝弘の山口動乱により社殿が焼失した。しかし毛利輝元により、安土桃山時代の天正12年(1584)に再建され、江戸時代の元禄12年(1699)、境内神社として瑞珠殿を建立したが、正徳2年(1712)、再度火災により焼失した。しかし享保5年(1720)、毛利吉元により重建されたという。藩主毛利氏歴代の崇敬は厚く、祈祷・幣帛料の寄進も多かった。明治6年(1873)に県社に列せられる。 山口県神社庁 |