剣神社
つるぎじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】剣神社 周防国 佐波郡鎮座

   【現社名】剣神社
   【住所】山口県防府市高井 1154-1
       北緯34度4分33秒、東経131度33分14秒
   【祭神】素盞嗚尊 (配祀)武甕槌神 日本武尊
   【例祭】9月28日近い日曜日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仲哀天皇の時「八握の剣」を祀
       貞観9年(867)8月正五位下(三代実録)
       文禄4年(1595)以前社殿・宝庫等悉く焼失
       文禄4年(1595)2月28日造営
       寛永12年(1635)9月再建
       明治8年5月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】天正以前は勝坂(現在地より西北方五町余)にあつた
        文禄4年(1595)2月28日現在地に造営

   【祭祀対象】本来は剣を祀る
   【祭祀】江戸時代は「剣宮」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・神饌所・神庫

   【境内社】焼火神社

社伝では、神功皇后征韓の際、夷敵降伏の御祈誓をこめられ、群臣等傍の坂に登り海上を臨みて勝利の加護を祝し共に雄叫びしたという。これより里人この坂を勝獲坂(今の勝坂)と称したと。またその後、この故事にもとついて諸將武運を祈る時には、社殿前に桶を並べ下官の神官等参集してこれを打たたき山も震動する如く雄叫びするを例とした。源義経平家追討の時社参し、豊臣秀吉も九州進発の折祈願朝鮮出兵し凱陣の節、韓の太鼓を献じたと伝えている。


由緒

樫の老木が立ち並ぶ、静かな鎮守の森に建てられている剱神社は、もと勝坂の地にありました。今から、およそ400年前の山火事で社が焼け、現代の土地に移されたといわれています。
社伝によれば、4世紀頃、九州の熊襲という豪族が、大和にあった朝廷にそむきました。仲哀天皇は、これを治めるために九州へくだられる途中、この右田の地に立ち寄られ、「八握の剣」という立派な剣を神の霊として、八岐大蛇を退治された武勇の神と敬まわれている「すさのうのみこと」を祀り、戦いに勝つようにお祈りされたと伝えられています。今から、およそ、1060年前、醍醐天皇の命令によって、藤原時平がつくりあげた「廷喜式」という書物の中に、全国各地の名高い神社を調べた「神名帳」があります。その名帳には、山口県から15座が選ばれていますが、剱神社もその中に入っています。
この神社には、源平合戦で手柄をたてた源 義経がお参りして、弓矢・鎧・鉾などを納め、大内氏代々の崇敬も厚く、たくさんの土地を寄進しています。また、朝鮮半島へ出兵した豊臣秀吉も九州の名護屋に行く途中、剱神社へ参拝し、九州から帰りには、唐の太鼓を寄進したといわれています。すべて、戦いに勝つようにお祈りしたのです。
このように、剱神社はいくさの神として有名ですが、また、右田地域、に悪い病気が流行したり、風水害や火災がおきたりしないで、作物がよく実り、地域が発展するように見守ってくださる霊験あらたかな神でもあります。
なお、神功皇后は、兵士を勇気づけ、戦いに勝利をおさめるために、神社の「かたわらの坂」に登られ、家臣といいっしょになって、海上にむかって、雄叫をあげられたといわれています。それから、この坂は「勝獲坂」と呼ばれていました。それが、現在の勝坂の地名になったといわれています。
(主要祭事)
祈年祭(4月10日)
五穀豊穣・家内安全祈願祭(7月20日)
例祭(9月28日に最も近い日曜日、神幸祭)
新嘗祭(12月5日)
式年祭(50年ごと)

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




剣神社

剱神社由緒  本社は人皇第60代醍醐天皇の時に作られた延喜式(西紀905)に登載されている式内神社で、最も古い周防国十座の中の一座である。
 社伝に人皇第14代仲哀天皇熊襲御親征の時、当地に行幸し、賊徒降伏祈願のため「八握の剣」を御神体とし、武勇の神「素盞嗚尊」を鎮祭し玉うたに初まり、神功皇后夷賊御征伐の際、傍の坂に登り、海上を臨み、神徳の加護を祝して群臣と共に御勝利の雄叫びをあげ玉う。よってこの坂を名付けて勝獲坂(今の勝坂)と称す。
 この事跡を慕い源義経は西下の際参拝して弓矢鎧鉾を奉納し、太閤豊臣秀吉も九州進発の時に、願をかけ、帰陣の後唐の太鼓を寄進した。
 大内、毛利氏代々も尊崇厚く広大な神田を寄進して戦勝並びに領内平穏と五穀豊穣とを祈願した。
 往古、長暦年中(西紀1037)までは国幣使を立てられていたが、明治維新後郷社に列せられた。
 なお昭和43年2月1日山形県鎮座の居合神社の御分霊を配祀した。

社頭掲示板



剣神社

御神体が宝剣であることにより剱神社と称する。平安時代の『延喜式』登載の式内社で、由緒ある周防国十座の中の一座である。社伝によると、仲哀天皇が熊襲御親征の折に当地へ行幸され、賊徒降伏祈願のため「八握剣」を御神体とし、武勇の神「素盞嗚尊」を鎮祭したまうたことに始まるという。神功皇后も、夷賊御征伐の際ご祈願を籠められ、群臣等と傍の坂に上り、海上を臨んでご勝利の加護を祈り、共に雄叫を上げられたと云う。以後里人は、この坂を勝獲坂と名付けたので、それが現在の勝坂の地名になったと云われる。これらの事蹟を慕い、各地の名将等が戦場に臨む際には、必ず参拝祈願をするようになった。中でも鎌倉時代の源義経は、西下の際参拝して弓・矢・鎧・鉾等を奉納した。戦国時代の豊臣秀吉も、朝鮮出兵の時参拝して祈祷した。その際社前に桶を多数並べ、下宮の神官等が参集してこれを打ち叩き、山をも振動するが如く雄叫びを上げたと伝えられる。さらに、凱陣の際には韓国の陣太鼓を奉納した。また、出陣の折には祈願の上境内の霊竹を採って旗竿とし、これを先陣に用いる事をこの時以降の吉例としたと云う。この地の領主となった大内氏・毛利氏代々当主の尊崇は厚く、広大な神田を寄進し、戦勝並びに領内の平穏と、五穀豊穣を祈願したり、社殿の改築等も行った。室町時代の天正元年(1573)以前は、本社は現在地より乾(北西)の方五町(約550m)余り、現勝坂にあったが、山火事により社殿・宝庫等を悉く焼失した。幸い、御霊代は西の峰の岩間に遷座して無事であった。しかし、諸名将の祈願文など、奉納された宝物等が焼失したため、現存しないことが甚だ残念である(旧郷社)。

山口県神社庁



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