古く当郷(船路)彌坂山に出現した神を祀つたことに始まる神社といわれる。彌坂山は定かではなく、一説に現在の社殿背後より更に奥の山ともいう。古く神社が祀られたのは現在地の西方の谷、陽悦山麓上野の地であつたが、永保3年に焼失し、川向いの下庄上野原に再建、更に応仁元年の洪水で再度移つて現在地に社殿を造営したと伝えている。 江戸時代から徳地にある三坂神社と、式内御坂神社として論争があった。明治4年、県の決定により、三坂神社が式内社に決定。当社は、改称を命ぜられ、八幡宮と称するようになった。 |
八幡宮 本社旧号御坂神社と称し祭神は道反大神なり。延喜式内(人皇60代醍醐天皇の御世延喜年間に撰び玉ひし 945年延喜式と申す書籍に登載の社)周防十社の一にして古来朝廷并に旧藩主の崇敬浅からざりし神社なり。社傳に人皇12代の帝景行天皇周防娑磨(今の周防佐波郡)に行幸の時三綱柏に御饌を包み川蜷を供して祭祀し玉ふと申傳ふ。今尚ほ社紋に三綱柏を存し例祭に川蜷を献供するは其の縁なり。 応神天皇は寛元2年(西紀1244年)藤原貞光(社司上野家祖先)の勧請せる所にして羽明玉命勧請の由来は詳ならず。社殿往古は字上野にありしが永保3年(西紀1083年)回禄の災に罹り字下庄上野ヶ原(今の宮河内神の御屋敷)に再建す。然るに応仁元年(西紀1467年)又洪水の變あり、更に現在の地に奉遷すと云ふ。斯く古き歴史を有する當社も明治4年藩廰の命により八幡宮と改称、応神天皇を本殿とすべき様達せられ以て今日に至る。 社頭掲示板 |
八幡宮 本社は旧号を「式内御坂神社」と称していた。社伝には、「道反神大国主神二神同躰の神秘也、古天穂日命筑紫より出雲に到り玉う時、當郷弥坂山に出顕し玉ひ、人皇十二代景行天皇周防婆磨に行幸の時、神託に依り三綱柏葉に飯を包み、川蜷を供え祭祀し玉う云々」とある。従って三綱柏を社紋とし、例祭には川蜷を献供するはこのためである。平安時代の延喜の頃(901〜)周防国十社の一つであった。社殿は陽悦山の麓上野に在った(今宮跡、馬場は田野という)。戦国時代の永保3年(1560)、当社は焼失し、同村下庄字上野原に社地を見立て再建する。鎌倉時代の寛元2年(1244)、上野貞光が二宮・玉祖神主兼務の時、大内弘貞の命により、二宮・玉祖より八幡大神を勧請し、これより御坂八幡と称え奉る。又室町時代の応仁元年(1467)、洪水により社殿が埋没したため、現今の社地に奉遷するという。江戸時代の寛保の頃(1741〜)より式内争いが起り、三坂神社と長い間論争を行ったが、明治4年(1871)、式内社は三坂神社に決した。このため、当社は社号換えを命じられ、この時より八幡宮と呼称することになった。羽明玉命配祀の由来ははっきりしない(旧県社)。 山口県神社庁 |