三坂神社
みさかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】御坂神社 周防国 佐波郡鎮座

   【現社名】三坂神社
   【住所】山口県山口市徳地岸見557
       北緯34度8分43秒、東経131度36分58秒
   【祭神】大国主大神 事代主大神
       (配祀)速玉之男神 道反大神 (合祀)素盞嗚尊 大歳神 埴山姫命

   【例祭】4月5日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】景行天皇12年草創
       天平10年(738)周防国正税帳頴稻二十束奉納
       承和6年(839)正月従五位下
       貞観9年(867)3月10日従三位(三代実録)
       天慶3年(940)2月正三位
       建長7年(1245)造営
       建武3年(1336)足利尊氏参道石葺寄進
       応永2年(1395)造営
       文明11年(1480)造営
       大永2年(1522)造営
       天正6年(1578)造営
       元和6年(1620)大洪水
       明治4年式内社決定
       明治8年5月郷社
       明治40年12月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古く小野原の地にあつたという
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 三坂神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・社務所・神庫

   【境内社】
   【別当】大見の専皇寺であつたと伝

景行天皇12年、天皇の周防国佐婆行幸に際して、周防佐麻呂なるもの神託によつて三綱柏の葉に飯・川蜷を包んで祀られたことが草創の発端。
当社は日清・日露戦争の際、当社に武運長久を祈願した人が全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になり、第二次世界大戦がはじまると、武運長久祈願のための参拝者が増え、一日800数人もあった。終戦と同時に参拝者名簿は焼却され、奉納写真の大部分は送り返されたが、1万点余りがまだいまだに当社に保管されている。


三坂神社

御祭神 大国主命。事代主命。
一、 御創立の年月日は、詳しくはわからないけれど大体1300年前ごろと推察される。
一、 *延喜式に「周防国十座、佐波郡六座三坂神社」とあり。
*延喜式は平安初期に施行された諸制度の編纂書、撰者は藤原時平ら927年完成。
一、 *日本総国風土記に「三坂神社は三坂村にあり」と。
*日本総国風土記は、狭義には713年元明天皇が諸国に詔して調査してできた報告書のようなもの。尚日本総国…は偽書とされている。
一、 周防国名所私記に「三坂神社は玉祖郷の内劔神社より二里ばかり川上の山中に在り、其の里を今も三坂といふ」とあり。
一、 東大寺正倉院御文書に「*天平10年周防国正税帳に御神命ありて、佐波郡三坂神社に春秋祭祀料又、神社改造の雑用等を充て奉らしめ給ふ」とあり。
*天平10年は739年聖武天皇の時代
一、 *続日本後記に「承和6年(839)閏正月周防国無位三坂神に従五位を授け奉る」とあり。
*日本後記は桓武天皇(792)から淳和天皇の天長10年(833)までをしるした漢文編年体の史書。840年撰進された。
一、 *三代実録に「貞観9年(867)3月周防国従四位下三坂神に従三位を授く」とあり。
*日本三大実録ともいい清和、陽成、光孝三代天皇の時代(858〜887)を扱った勅撰の歴史書。
一、 *長寛勘文に「天慶3年(940)〔平将門のころ〕2月諸神社位記請印の事あり、去る承平5年(935)海賊を平ぐる事を十三社に祈り申す。三坂神社に正三位を加ふ」とあり。
*長寛は二条天皇の代の年号。
一、 *源平盛衰記に「永保元年(1081)2月神位一階を増し奉らる。永治元年(1141)9月に、治承4年12月に、元暦2年3月に各一階を増し奉らる」とあり、正一位に進ませ給ふ。
*鎌倉後記の軍記。四八巻。作者は玄琶法印とも伝えられる。
一、 萬葉集に「千早振る神の三坂に幣奉り祝ふいのちはおも父がため」とあり。今も古式奉幣の儀に三唱。
一、 周防徳地誌に「足利尊氏西国に走る途次、三坂神社に参り久しく篭りて開運を祈願し御社の北の所で能楽を奏して御神意を慰め奉り(今も「おのう原」の地名あり)神馬、馬具等を献納せり」とあり。参道に敷いてある石畳は尊氏が敷いたといふ。
一、 周防徳地誌に「豊臣秀吉公三坂神社に参り、五色の吹貫等を献納し、数日当社の釣鐘を借りて用い、九州博多まで持婦り過ぎて、石州津和野永明寺に返したるものなり。その釣鐘今もその寺にありという。
鐘の銘に    周防国裟摩郡岸見村 三坂神社 銅頭鉄額 有口不言 等閑觸着 音震乾坤 覚長衣夢 破夢明昏 普今群類 入国通門 應永二歳八月十五日 再興十方施主 大工 大和光用
一、 藩主 二ノ鳥居献納 銘に延喜式内三坂神社(中略)大江侍従吉廣元禄11年(1698)戊陽月」とあり。
一、 明治6年郷社に列せられる。明治35年神殿銅板葺替え。
一、 公爵毛利元昭閣下大正4年4月20日御参拝。
一、 大正8年4月5日県社に列せらる。
一、 昭和5年1200年祭執行
一、 日支事変、大東亜戦争中、武連長久祈願のための参拝者数知れず。野尻防石鉄道岸見駅より社頭まで2kmの道を延々人並みが続いた。
一日最高祈願数は880と云ふ。昭和19年7月7日サイパン島守備隊玉砕の日参拝者の重みのためか中殿の座がくずれ落ちると同時に境内の椎の大木がさけたという事もある。
一、 昭和20年終戦の年12月国教分離により社格削除される。
一、 昭和21年6月占領軍MPに依り臨検を受く。参拝者名簿は事前に焼却した。参拝者の写真は大部分送り返し、残りの分は隣家の床下に隠して無事であった。現在約一万数千が保管してある。
一、 昭和28年宗教法人制となり、氏子又は崇教者により推持運営されることになる。
一、 昭和30年12月 1225年祭執行。しゃぎり等で賑わう。
一、 昭和33年社号碑、35年演舞場建設 岸元首相も参拝された。
一、 昭和54年神木と称えられた「オオマツ」が枯れ、伐切売却した。
一、 その年から拝殿・中殿・釣殿の屋根を銅板にし、神殿・中殿の壁を修理した。2月に完成。
一、 NHK全国放送(2月〜3月)のため参拝者が急に増えた。
一、 昭和55年11月1250年祭執行。神徳碑を建立し、その下に写真名簿を埋納した。
一、 昭和60年1月からKRYテレビ「写真の中の日本人」などで紹介されて、全国的に知名度が高まった。
一、 平成7年3月、終戦50周年を記念して氏子から献納された石で参道を改修した。「平和の礎]と呼称する。NHK全国放送。
一、 戦後50年経過しても尚無事帰還御礼の参拝者が全国からあり、他には方災除や交通安全祈願も数を増してきつつある。尚、氏子の氏神に対する尊崇の念や氏子同士の結束の固いのも近郷に有名である。
平成7年3月記(宮司佐伯治典謹白)

由緒書



弾除け神社としての存在

はじまり
戦時中「日清・日露戦争の際、三坂神社に祈願して出征した氏子の兵士全員が生還した」と報道されたことから、武運長久祈願のみならず、弾除け神社として知られるようになった。出征軍人の家族らが写真を奉納し、当時全国各地から2万枚を超える写真が寄せられたという。
現在も写真の返還作業が続けられている。
宮司の想い
「戦時中に、三坂神社に武運長久祈願のために奉納された、貴○○○○殿の御写真を是非、お返ししたいと存じます。御国の為に、応召出征され、身命を捧げられんとするを、その武運を願って奉納された肉親の真心と情愛のこもった、誠に貴重な写真です。
いろいろな思い出がにじんでくることでしょう。全部お返しして私の戦後が終わる思いであります。どうぞ御協力賜りますようお願いいたします。」 
※佐伯宮司が1989年(平成元年)7月から、氏名・住所が判明した写真奉納者のところへ、写真返却を通知する往復書簡を出し始められた時の文面です。
これまでの活動
支那事変から大東亜戦争中
武運長久祈願のための参拝者数知れず。野尻防石鉄道岸見駅(現廃線)から社頭まで1キロの道を延々人並が続いた。1日の最高祈願者数は880人という。昭和19年7月7日サイパン島守備隊玉砕の日、参拝者の重みのためか、中殿の座がくずれ落ちると同時に境内の椎の大木が裂けた。
昭和21年6月
占領軍のMPの臨検を受けたが、参拝者名簿は事前に焼却。参拝者の写真(武運長久祈願)は送り返し、残りは隣家に隠して無事であった。現在約1万2千は地区別に整理し、関係書類と共に奉安所を設けて保管。
昭和54年
神徳碑の下に埋納する予定で奉納写真の名簿を作成、13冊に及ぶ。
昭和55年2月18日
NHKのテレビ番組で全国放送され、参拝者が相次ぎ、多い日には1日30人の日もあった。この年889人の写真を返還する。福栄村の村長以下30人が参拝される。

公式HP



三坂神社

創建の年月は不明。奈良時代の天平10年(738)『周防国正税帳』に、「周防国御坂神社に春秋祭祀料又、神社改造の雑用等を充て奉らしめ給う」とある。平安時代の『続日本後紀』には、「承和6年(839)周防国三坂神社に従五位下を授け奉る」とある。『三代実録』には、「貞観9年(867)従三位を授く」と。『延喜式神名帳』に、「周防国十座、佐波郡六座御坂神社」との記載がある。『長寛勘文』には、「天慶3年(940)諸神社位記請印の事あり、去る承平5年(935)海賊を平ぐる事を十三社に祈り申す。三坂神に正三位を加う」と書かれている。当社は再々火災に遭った模様で、天徳年間(957〜)、鎌倉時代の建長7年(1255)、室町時代の応永2年(1395)、戦国時代の文明11年(1479)、大永2年(1522)、安土桃山時代の天正6年(1578)、江戸時代の延宝8年(1680)に、それぞれ「再建のことあり」と伝えられている。文久元年(1861)に現在の社殿が建てられた。『周防徳地誌』に「足利尊氏西国に走る途次、三坂神社に参り、能楽を奏して、御神意を慰め奉り、神馬・馬具等を献納せり」とあり、参道の石畳は尊氏が敷いたという。又、「豊臣秀吉公、三坂神社に参り、五色の吹貫等を献納し、当社の釣鐘を借りて用い、石州津和野永明寺に返したるものなり…」という。鐘の銘に、「周防国裟摩郡岸見村三坂神社 銅頭鉄額 有口不言 等閑觸着 音震乾坤 覚長衣夢 破夢明昏 普今群類 入国通門(応永二歳)(以下略)」とある。二ノ鳥居の銘に「延喜式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄11年(1698)戊陽月」とあり、四代藩主吉広の寄進であったことが分る。宝永年間(1704〜)以来、船路八幡宮との間で続いた式内社論争も、明治4年(1871)に決着し、明治6年(1873)に準郷社格となり、同8年(1875)郷社に列せられる。明治35年(1902)、本殿を銅板に葺替える。大正4年(1915)、毛利元昭公御参拝。大正8年(1919)県社に列せらる。昭和5年(1930)、1200年祭斎行。日中戦争に続く大戦中に、武運長久祈願のための参拝者は数知れず、防石鉄道岸見駅から社頭まで1kmの道を延々たる人波が続いたという。一日最高祈願数は、880名に達した。昭和20年(1945)の終戦の年、国教分離により社格を削除。昭和21年(1946)に占領軍MPの臨検を受けたが、参拝者名簿は事前に焼却した。祈願写真は、隣家の床下に隠して無事であった。その数一万数千枚である。NHKを始めマスコミ等の協力を得て、返還作業を続け、約一万の数を返却した。残りは社殿内に奉安所を設けて保管し、求めに応じて返し続けている。

山口県神社庁



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