地元民には神社よりも北方500mの厄神の森一帯(字江良)を玉祖神社の旧社地と伝承する。ただし神社では遷座したことを否定する。 延喜式には二座と見え、主神は玉祖命であるが今一座は不詳とする。 天孫日向国に降臨の時、供奉した五伴緒神の一柱玉祖命が、後にこの大前(大崎)の地に座して中国を平定し、ついにこの地で神避りました後、御祖の地に葬り、その威霊を宮として祭つたのが本社の起源とする。 |
由緒 式内社、周防国一宮、旧国幣中社 玉祖神社略記 社名 古書には玉祖をタマオヤノとかタマノオヤノと訓じているが、古来周防一ノ宮であったところから、中世には「一の宮」の呼称が行なわれ、江戸時代では「一宮玉祖社」(いちのみやたまのおやしゃ)という名称が一般的であった。明治4年(1871)国幣社に列格以来玉祖神社(たまのおやじんじゃ)の呼称に統一され今日に至っている。 祭神 延喜式神名帳には玉祖神社二座とあって神名は明示されていないが、主神は玉祖命で今一座は不詳である。 玉祖命は玉造連(たますりのむらじ)の祖神で三種の神器の一つ、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を造られた神で別名櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、羽明玉命(はあかるたまのみこと)、豊玉命(とよたまのみこと)、玉屋命(たまのやのみこと)とも称す。 不詳の一座は神主土屋家文書や防長風土注進案では、天鏡尊(あめのかがみのみこと)、天日神尊(あまのかかみのみこと)とし、鏡を御霊代として日神と仰奉る天照大神ではないかとしているが、その天照大神を御祖神として、浜宮御祖神社(はまみやみおやじんじゃ)を当てた時代もあり、氏子中には女子の初宮詣には必ず浜宮御祖神社へも参る古習があるので、祭神を女神とするものや、玉祖命の母神とする説などがあるが未だ定説はない。しかし、祭典に当っては常に二座分の御供物を献奉る仕来になっている。 由緒・沿革 天照大神の天岩戸隠の神事で玉祖命は八坂瓊曲玉を造られ、その後天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向国に降臨の時供奉した五伴緒神(いつとものおのかみ)の一柱として国土統治の御創業を補佐されたことは記紀に載るところであるが、社伝には、後にこの大前(おおさき・大崎)の地に座して中国地方を平定し、ついにこの地で神避りました後、御祖(みそ・江良)の地(玉の岩屋)に葬り、その威霊を祀たのが当社の起源とし創建年月は不詳であるが、以後、玉造連玉祖氏が祭祀を司ったと思われ、史料にも天平10年(738)の周防国正税帳に祢奇(祢宜)玉造部五百背の名が、更に長徳4年(998)今昔物語巻十七に宮司玉祖惟高の名が見える。 社記には景行天皇12年(82)筑紫行幸の砌、周防裟婆(さば)に行在所を設けられたのが玉祖神社北方の宮城の森であると伝え、その節剣を奉納されたが、今御殿奥深くに宝剣として奉安されている。また、仲哀天皇・神功皇后西征の折も寄江(よりえ・神社の西南)という浜に着船、高田の土を以て沢田長(佐野焼陶工の始祖)に三足の土鼎(なべ)とHIRAKA(はち)を作らせ、神供を備えて軍の吉凶を卜された。これが今も伝わる占手神事の起源である。 確実な史料で沿革をたどると、天平8年(736)より10年までの三年間、玉祖神社領の田租穀三十九石二斗八升を奉免翌年周防国の正税より頴稲三千八百三十四束を以て神税として奉納された。神命に依て祢奇玉作部五百背にも二百束が給される。 大同元年(806)には従来の封戸十戸のほかに五戸を賜わる。 貞観9年(867)3月10日、神階従四位下より従三位に昇る。 延長5年(927)延喜式神名帳に玉祖神社二座と載る。 康保元年(964)4月2日、神階正二位から従一位を授る。 平安時代には田島庄、小俣庄、高墓庄の三荘園が寄進される。 長徳4年(998)今昔物語中に周防国一宮玉祖大神と全国一ノ宮の初見となる。 天治2年(1125)安芸權介藤原實明によって荘園並びに神社敷地ともども鳥羽天皇中宮の待賢門院に寄進される。 保延3年(1137)實明の寄進状及び公験に基づいて京都花園の法金剛院に寄進。 永萬元年(1165)神祇官から名神諸社に進物が下された際、大榑(材木)三百寸が給される。 建久6年(1195)8月5日、俊乗坊重源周防に下向、東大寺再興の功を偏に玉祖大明神の加護によるところとし、当社造替の工を起し、神宝を調進し、9月28日遷宮の儀を終える。日別供料の料田として十町歩の田地を奉免する。同日、造替目録を作成し改築の趣旨を述べる。 建武2年(1335)9月、大内弘幸が社殿・神宝を造営。 正平11年(1356)僧命俊、九曜巴文双雀鏡を奉納。 長禄元年(1457)8月、田島(防府市中関)の氏子分離し岡庄(中関南山手)に玉祖神社を祀る。 文明11年(1479)12月8日、大内政弘に差出した一宮玉祖社御神用米在所注文は大前(崎)村、宇野令、湯田保、黒河保、千代丸、下松出作、富海保、西仁井令、佐波令平井の十個所に及ぶ。 明応6年(1497)4月16日、大内義興参詣し神馬を寄進。 天正17年(1589)11月2日、毛利輝元、社領二百石を寄進。この年より文禄5年(1596慶長元年)4月23日までの打渡坪付に法金剛院、得楽坊、菊楽坊、正満坊善得坊、正法院、宝持院、藏満坊、行泉坊の名が見える。 慶長3年(1598)9月、社殿、社坊、社人の屋敷等も悉く焼亡す。 慶長14年(1609)9月、毛利秀就社殿再興。 寛永21年(1644正保元年)8月、鳥居建立。 明暦3年(1657)8月、毛利就信(右田毛利)馬場に大鳥居建立。 寛保元年(1741)9月19日、往昔供僧十二口ありしが、十一ケ寺はことごとく断絶寺屋敷も不明となり、別当得楽坊のみが残存す。 寛延3年(1750)7月、毛利宗広により社殿造替。同時、滝長ANI が玉祖神祠記他三巻を納む。文中に「源義経平家追討の時、吉包の太刀を御社に奉りて必勝を祈らる。尊氏将軍筑紫より進発の時、猛房の太刀を奉りて大功の成就せんことを祈らる。二振の太刀今に伝へて神器とす」とあり、宝暦9年(1759)3月23日付一宮御宝物入日記に二振の太刀が記載されている。 嘉永7年(1854安政元年)社殿大修繕。 明治4年(1871)大政官布告により国幣小社に列す。 明治6年(1873)佐野若宮社が玉祖神社摂社に列格。 明治10年(1877)浜宮御祖神社も玉祖神社摂社に列格。 明治11年(1878)官費により大修繕。 大正4年(1915)国幣中社に昇格。 戦後は社格制度が廃止され、旧官国幣社は別表にかかげる神社として一般の神社と区別され、別表神社となる。 昭和50年(1975)御神庫(宝物殿)新築。 昭和52年(1977)9月御神殿、拝殿、神門等屋根総葺替。 昭和57年(1982)4月8日、山陽自動車道建設に伴い浜宮御祖神社を旧社地北方約百五十メ−トルの地に遷す。この年本社参道も短縮される。 祭事暦 1月1日 歳旦祭 2月11日 建国記念祭 2月17日 祈年祭 3月10日 若宮社例祭 3月中 厄除祭 大崎・佐野地区の氏子の中で厄年に当る33歳の女、37、42、61、70歳の男女が協議し吉日をトして執行す。 同 勧学祭 4月10日 玉の祭 八坂瓊曲玉をおつくりになられた御祭神の御神徳を仰ぎ奉り、眼鏡・時計カメラ・宝石等を業とする者、玉作御祖大神の総本宮と崇め、全国各地より参詣し御神恩に感謝し、併せて斯業発展と家内安全を祈願する。眼鏡焼上神事、占手神事も執行される。 4月29日 天長祭 5月上辰の日 玉の岩屋祭 玉祖命の御墓所と伝える玉の岩屋にて執り行なわれる。 6月30日 大祓式 7月中 御回在祭(田道御幸) 9月25日に近い日曜日 例大祭 前日に釣垂神事(つりたれのしんじ)が、前夜祭では占手神事が執り行なわれ、大祭当日早朝、三足の土鼎で白飯・黒飯を炊いてHIRAKAに盛合せ神饌に献供する。日没後浜宮御祖神社へ御神幸。いずれも古来よりの特殊神事である。太陽暦になる以前は8月14・15日が大祭であった。 11月15日 七・五・三祭 11月23日新嘗祭 12月31日除夜祭 特殊神事 斎竹祭(おはけ) 例祭前に新しく注連縄をつくり忌竹と共に飾りつける神事である。 宝暦3年(1753)、神主土屋家の記録に「八月朔日斎竹祭、御祭礼折・・・・大鳥居切餝相済、祖社之両神之注連、内鳥居注連祭り相調申候。是朔日之社役筋ニテ御座候・・・・」とあり、古来大崎居合の宮付(みやつき)と称する家十八戸が注連縄をつくり、鳥居には忌竹を飾付け、終れば一の鳥居の下に案を据え、神酒と塩水桶を献備し、神職が大祓詞を読み、塩水桶をとって修祓する。その後宮付の者神酒を拝載してこの神事を終了したが、現今は大崎・佐野地区の自治会単位で順送りに注連縄づくりと忌竹飾りをつとめている。 釣垂神事(つりたれのしんじ) 大祭の前日、神職が田島浦(防府市中浦)へ出向し、海辺に神籬を差立て、神饌のほかに釣具などを供え、中浦漁業組合の人等が参列して、神事の由ならびに豊漁海上安全の祈願祭典を執行する。後に組合員が出漁して獲た魚を、大祭当日本社へ持参し神饌として奉献する。 当社の古記録に「八月御祭礼、往古は十五日 月之出YORI於御祖神社(浜宮御祖神社)舞楽始り 亦釣垂之遊有り 釣舟田島浦より船三艘を奉例なり 社官鮮魚を釣て奉供 是当社釣垂之神KOTOと申伝候。右比釣舟いつとなく中絶 其船之代りに田島より御祭礼之時に加輿丁相勤来り候・・・・」とあり、往昔の神事の様子を知ることが出来る。 現在の釣垂神事は昭和15年紀元2600年を記念に再興し、戦後の混乱期も中絶することなく引続き執行されている。 占手神事(うらてのしんじ) 山口県指定無形民俗文化財である。 例祭の前夜祭で神門前に注連縄を張り廻らし、庭燎をたいて執行する。 社伝に神功皇后三韓征伐の砌、当社へ戦勝の御祈願遊ばされ、この神事を御執行、出帥の吉凶を手により占ひ給いし、茲来当社の特殊神事として今日に及ぶ。 周防地誌提要案に「仲哀天皇神功皇后もまた詣せ給へり・・・・・・・この時軍の吉凶を神前にトはしめ給へる由にて、今にト手小相撲(らうてのこずもう)といふ式など残れり」と、また天保13年(1842)の防長風土注進案にもト手小相撲として「宵殿祭之式也」と附加している。この古式は丑の刻(午前1時〜3時)に執行されたことから夜相撲ともいう。宝暦3年(1753)の当社の記録に、夜子ノ刻(午後11時〜午前1時)に御神楽をすませ、玉垣の外に出てうら手の相撲を行なったとあり、その形が相撲に似ていることから占手相撲ともいう。 神事は、宮司・祭員が神門前に着座した後はじまる。裃を着用した首座(しゅざ)が判士をつとめ、軍士と呼ばれる行事所役二人が裸体に白の褌をしめ、東西に分れて着座、相撲の蹲踞に似た姿勢で両手を腰の上部につけ、右左右、左右左と両脚をくの字型に折り曲げながら進み出て、行き合うと各人の手のひらを見せ、己の腰を叩く。三回くりかえして一回の行事が終り、これを都合三度行なう。最後の段階で軍士は掌を組みあい、東と西が入れかわって地上を叩く。平年はその数12、閏年は13回叩き、叩き終ると神前に向って両手を上げ鬨の声を上げると神事が終了する。鬨の声以外は全く無音の敬虔な神事である。 例祭特殊御供 例祭当日の早朝、三足の土鼎(どてい・なべ)二個を以って、白飯(白米)黒飯(玄米)を炊き、これをHIRAKAに半分ずつ盛合せて神饌に献供する。 これは神功皇后御祈願の時より始るといい、沢田長(さわたのおさ)(佐野焼陶工の始祖といい、防府市大字佐野の中に沢田の地名を残す)の子孫が代々この祭器を毎年調進する古例があり、昭和30年頃まで続いたが中絶したため古器にて炊いていたが、昭和57年9月、佐野焼保存会の願意により毎年の調進が行なわれるようになった。 風土注進案に「昔仲哀天皇 神功皇后 筑紫を征伐し給ふ時、当所に御船を寄せられ、澤田の長(澤田中頃土田と称し今ハ内田と申候、当時弥三郎家なり)に命じて高田の土(高田は姫山の麓なり)を以て三足の土鍋を作り御供を炊き、大HIRAKAに盛り 玉屋の明神に備へて軍の吉凶をトひ祭り給ふ例にて当天保12年丑年迄1641年之間闕如なく毎年8月一ノ宮大祭会之節澤田家筋より鍋を備奉候・・・・・」とある。 この土鍋は素焼製で、往古当地方の日常品であったと推測できる。これらの破片が弥生式土器、瓮等の破片と共に等地方一帯から出土する。即ち玉祖神社特殊の祭器ではなく、神功皇后は祈願のため、得に新調を命じられたのである。 尚、社伝では佐野若宮に鎮座する若宮社は、沢田の長の子孫が玉祖命の御分霊を祀り、壺神様として崇め奉り、焼物業の加護を祈念したという。 玉祖神社ゆかりの地 宮城森 ミヤキノモリともいう。神社北方300mの田中にある。 景行天皇12年に九州の熊襲部族が反乱。西征の途中周防国裟麼(佐波)に神夏磯媛と名乗る女酋が勢力を張っていた。天皇至るときくや、神夏磯媛は磯津山(しずやま)から賢木(さかき)を採り、八握剣・八咫鏡・八尺瓊(玉)を上中下の枝にそれぞれに掛け、白旗を船の舳先に立て天皇を奉迎し恭順の意を示していることが日本書紀に載っているが、天皇は玉祖神社へ戦勝祈願され、その時の行在所の跡が宮城の森という。玉祖神社附属地。 八籠山 当社の北々西約600mにある。通称霞山。糘山(すくもやま)。 景行天皇宮城の森に行宮を設けられた際、この山に八神(神皇産霊神・高皇産霊神=天地萬物・人類はことごとくこの二神の力によって鎔造化育された。生産霊神=生成活動の神足産霊神=充足完備の神。魂留産霊神=霊魂を身体中に鎮め留むる神。大宮売神=和平を図る神。御膳都神=食物を主宰する神。事代主神=国土経営の神)を祭られ、その時の祭器を埋められたところからこの名があるという。 玉の岩屋(たまのいわや) 「玉屋命、大崎の閭(村里のこと)に隠れさせたまひ 御神体を納め奉るを玉の岩屋といふ。当社の後三町餘隔てる江良に有之 天正のころまでは歴然たり、今は其形少残れり、依て近歳石の小祠を立て験とす、四月上辰日祭・・・・・」と風土注進案に見えるが、現在の玉の岩屋は明治六年修築したもので、祭典は5月上辰日に執行される。神社北方約500mにある。玉祖神社附属地。 主な宝物 重要文化財 周防国一宮造替神殿宝物等目録 一巻 建久6年(1195)3月、十年の歳月をかけて東大寺大仏殿の再建をなしとげた重源が玉祖大明神の加護に感謝するため、同年8月5日に周防国に下向し、同月7日から9月28日までの間に玉祖神社の造替えを行なった社殿以下の建物及び御帳台・神輿・御束帯など宝物類の目録である。 末尾に趣旨を述べ、裏書で日別供料の料田として十町歩の田地を奉免する。 附 周防国一宮玉祖神社神祠重建目録 一巻 重源の造替から140年目に行われた造替の目録で、社殿の規模をはじめ社領、神事祭礼神官、供僧の数まで記載されている。大内弘幸加判の建武2年(1335)9月のものである。 附 周防国一宮玉祖神社御神用米在所注文 一巻 文明11年(1479)12月に大内政弘に差出した玉祖神社の御神用米の社領の所在と面積を書き上げたもので、前記目録とともに玉祖神社が重源以後も東大寺領周防国の一宮として、その規模を保持していた様子を伝える貴重な資料である。 重要美術品 銅製 九曜巴紋双雀鏡 一面 正平11年(1356)僧命俊が奉納して伝えられたもので、慶長3年(1598)社殿が火災にあった時火中し、鏡面の肌が傷んではいるが、文様は原形をよくとどめている。市指定文化財 太刀 銘吉包 一口 古備前最後の刀工の一人といわれる吉包(よしかね)の作で、長さ80.5cm、反り2cm、鎬造り、庵棟(いすりむね)、直刀でである。社伝では源義経が平家追討の際戦勝祈願し奉納したという。市指定文化財 太刀 伝信国 一口 南北朝時代の著名な刀工信国の作と伝えられ、長さ73.4cm、反り2.2cm、鎬造り、庵棟、直刀で茎(なかご)は摺り上げ茎である。「信国 正真長サ弍尺四寸壱分半無銘表裏樋有之 代金子拾枚延宝七年未 五月三日 本阿(花押)」と書かれた阿弥の折紙が添えられている。近藤清石の奉納である。 その他古鏡、文書等多数。 天然記念物 日本鶏 黒柏(くろかしわ) 山口県と島根県の一帯にわずかに飼育されている貴重な日本鶏。昭和26年6月9日文化財保護委員会より天然記念物の指定を受けた。羽毛は金属光沢を持つ緑紫黒色。小国系統の長尾鶏、長鳴鶏。 社伝では天照大神の天の岩戸隠の時、常世長鳴鶏を集めて鳴かせたのがこの黒柏で、その後玉祖命がこの鶏をつれて、ここ大崎の地に留まられたという。黒柏発祥の地として神社境内でも飼育されている。 (注一)一の宮 国中第一の神社をいい、原則として一国に一社ある。恐らく最初から全国的に定まったものではなく、神位・信仰・勢力等の最も著しい神社をその国の一宮として尊崇したのが起りで、それが漸次全国的に普及すると共に、準公的な権威・社格をもつに至ったと考えられる。 平安中期に現われ、鎌倉時代には全国的になっていた。今昔物語の中に周防一ノ宮玉祖大明神と書かれているのが全国一宮の最初の記録である。 (注二)国幣社 明治4年(1871)太政官布告による社格の一つ。この布告で国家自らが経営する神社を官社、それ以外の神社を諸社と称することに定められた。 官社には官幣大社・官幣中社・官幣小社・国幣大社・国幣中社・国幣小社の六つ、諸社には府社・藩社・県社・郷社・村社の六つが設けられた。明治6年(1873)に官社のうちに新たに別格官幣社が加えられた。別格官幣社は歴史上の功臣で神に祭られた神社で、官幣社には例祭に際して皇室から、国幣社には同じく国庫から幣帛料が供進された。 この社格制度は戦後廃止され、旧官社は現在別表神社として一般の神社と区別さていれる (注三)式内社 醍醐天皇の詔命によって延喜7年(907)編纂に着手し、20年を要して延長5年(927)に完成した延喜式(五十巻)の第九・十巻〔神名帳〕にその名を登載された神社を式内社という。 玉祖神社二座と載る。当時の制で、毎年二月祈年祭にあたり、神祇官或は国司より奉幣に預るものを官舎といい、他の一般神社と別の待遇を得た。 (注)文中のHIRAKAは「皿」偏に央です。YORIは古文書の「より」、KOTOは「こと」です 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
玉祖神社 旧国幣社 玉祖神社由緒 周防国一ノ宮として由緒深く、御祭神は三種の神器の一つである八坂瓊曲玉を造られた玉祖命であります。玉祖命は五伴緒神の一柱として中国地方を治められ、ここ大崎の地で歿せられたと伝えられ社殿の北、約500mにある玉岩窟(たまのいわや)はその墓所と云われています。 神社の創建はあまりにも古く定かではありませんが、景行天皇12年西征にあたって戦勝祈願のため宝剣を奉納されたものが今も御神宝として伝わっております。 仲哀天皇・神功皇后も西征の折ご参拝になり。今の佐野焼の始祖と云われる沢田の長に三足の土鼎とを作らせ米を炊き捧げられ、また軍の吉凶を占われたことに起因すると云う占手神事も昔ながらに伝えられ厳かに執行さされております。 玉は洋の東西を問わず美しく尊いもので平和のシンボルとされていますが4月10日の玉の祭には全国各地から宝石・眼鏡・時計・カメラ業者が参拝しており、玉の祖神として、また平和の神として崇敬されております。 例祭 9月25日に近い日曜日 玉の祭 4月10日 特殊神事 占手神事(山口県無形文化財) 釣垂神事 主な宝物 重要文化財 俊乗坊重源造替目録 大内弘幸重建目録 毛利輝元宗広再建目録 重要美術品 銅製巴文双雀鏡 防府市文化財 源義経奉納吉包の太刀 天然記念物 日本鶏 黒柏 付近には玉岩窟・宮城の森・浜宮御祖神社・若宮社があります。 社頭掲示板 |
玉祖神社 天照大神の天岩戸隠の時の神事で、玉祖命は八坂瓊曲玉を造られ、その後天孫瓊々杵尊が日向国に降臨の時、供奉した五伴緒神の一柱として、国土統治の御創業を補佐されたことは記紀に載るところである。社伝では、この後に玉祖命は、大前(大崎)に住居して中国地方を平定し、ついにこの地で神去りましたという。亡きがらは御祖の地(江良の玉の岩屋)に葬り、その威霊を祀ったのが当社の起源と伝える。創建年月は不詳であるが、以後玉造連玉祖氏が祭祀を司ったと思われる。奈良時代の天平10年(738)、周防国正悦帳に「祢奇(祢宜)・玉作部五百背」の名が、更に平安時代の長徳4年(998)、『今昔物語』巻一七に「玉祖惟高」の名が見える。社記には「景行天皇12年征西の砌、周防娑婆に行在所を設けられたのが、玉祖神社北方の宮城の森である」と伝える。この時「霞山(江良)に天八神を祀り、同時に玉祖神社創建の土祭があった」と言う。また、「仲哀天皇・神功皇后征西の時に、神社西の寄江という浜に着船し、高田の土を以て澤田長(佐野焼陶工の始祖)に三足の土鼎とひらかを造らせ、神供を供えて軍の吉凶を卜された」とある。これが、今も伝わる占手神事の起源である。確実な史料で沿革をたどると、奈良時代の天平8年(736)より10年(738)までの三年間、朝廷から玉祖神社領の田租穀三九石二斗八升が奉免された。翌年は周防国の正税より頴稲三八三四束を神税として奉納され、祢奇玉作部五百背にも二〇〇束が神命によって給された。平安時代の大同元年(806)には、従来の封戸一〇戸のほかに五戸を賜わり、貞観9年(867)には、社格が神階従三位に昇った。さらに、康保元年(964)には、神階が正二位から従一位に昇った。ついで、永万元年(1165)、神祗官から名神諸社に進物が下された際、大榑(材木)三〇〇寸が給された。鎌倉時代の建久6年(1195)、俊乗坊重源が周防に下向していうには、「東大寺再興の功は偏に玉祖大明神の加護によるところ」とした。そこで当社造替の工事を起し、神宝を調進して遷宮の儀を終えた。この時、日別供料として料田一〇町歩の田地が奉免された。その後建武2年(1335)、大内弘幸が重源と同一規模の社殿の造営を行い、神宝を調進した。室町時代の文明11年(1479)、大内政弘に当社から差出した「一宮玉祖神社御神用米在所注文」では、社領が大前村・宇野令・湯田保・黒河保・千代丸・下松出作・富海保・西仁井令・佐波令・平井など、佐波郡から吉敷郡の一〇個所に及んでいる。明応6年(1497)、大内義興が周防五社詣でのため参詣し、神馬を寄進している。安土桃山時代の天正17年(1589)、毛利輝元が社領二〇〇石を寄進する。この年より文禄5年(1596)までの「打渡坪付帳」には、法金剛院・得楽坊・正満坊・善得坊・正法院・宝持院・蔵満坊・行泉坊・菊楽坊の九社坊の名が見える。しかし、江戸時代の慶長3年(1598)には、社殿・社人の屋敷と共に九社坊が悉く焼亡し、慶長14年(1609)に、毛利秀就がようやく社殿だけ再興する。しかしながら、往事に比して今回はいかにもささやかな社殿であった。寛延3年(1750)、毛利宗広によってようやく本格的な社殿造替工事が行われた。さらに、安政元年(1854)には藩主による社殿の大修繕が行われた。明治4年(1871)、太政官布告により、当社は国幣小社に列した。その後、同6年(1873)、佐野の若宮社、同10年(1877)には浜宮御祖神社が当社の摂社となった。同11年(1878)には、官費によって社殿が大々的に改修された。大正4年(1915)国幣中社に昇格。昭和11年(1936)、眼鏡業者等の協力を得て斎館を新築し、社務所を改築した。 山口県神社庁 |