玖珂郡には、岩隈八幡宮が、周東町と玖珂町に、2社存在する。 元禄4年9月、岩国藩主吉川広紀が、元の地岩隈山(周東町祖生の地)から現在地久重山麓(玖珂町)へ遷座した。 しかし、その後災厄が周東町の祖生の地に起るので、宝永5年(1708年)4月19日に元の地岩隈山に本殿を建立した。 |
由緒 当神社の創建は定かでないが、当初熊毛郡下の時代玖珂盆地下祖生にあって、御祭神三毛入野・磐余彦命・玉依姫命を祀る熊毛神社と称し、「延喜式内熊毛神社」と言われている。和銅七年(714年)宇佐神宮より八幡大神を勧請し、その後八幡の守り神として住吉大神を奉斎し、併せ主神九柱を祀っいる。神社名もいつの頃よりか岩熊神社となり岩熊八幡宮・巌隈八幡宮を経て、今日の岩隈八幡宮と改称されてきた。三毛入野命は熊毛の大神といわれ、この地域で米づくりを教え指導され豊かな里にされた。里人挙って感謝の意を表し産土の神として岩隈山へ祀ったものである。三毛入野命のミケは米を、イリヌは親しむを意味してお、り、又、熊毛の地名のクマケは古語でクマもケも米のことであり、祀られている。岩隈山と三毛入野命から米のよくできる里即ち熊毛と呼ばれるようになったと言われている。元禄四年(1691年)萩藩朱毛利氏の要請に応え、岩国四代藩主吉川広紀氏が現在地(玖珂町久重山)に遷座されたものである。因みに神殿は室町時代天文三年(1534年)当時の守護大名大内義隆氏の造営にかかるもので現存している。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
岩隈八幡宮 淡島社 少彦名神 八天狗社 猿田彦神 諏訪社 素盞鳴尊 稲荷社 己貴神・〈配祀神〉大物主神外4座 宗本社 大己貴神・大物主神 多賀社 伊弉諾神 氷川社 須佐男神 八坂社 須佐男神 主な御祭神は三毛入野神(みけいりぬの神)磐余彦神(いわれよひこの神)玉依姫神(たまよりひめの神)の3神が祭られており、社名は、もとは熊毛宮と呼ばれていましたが、和銅7年(西暦714年)宇佐八幡宮の勧請により岩熊八幡宮と改称され、さらに現在の岩隈八幡宮と改められました。 県下では数少ない由緒ある社であります。社はもと下祖生岩隈山にあったものを元禄4年(西暦1692)に領主吉川広紀が当宮を参詣し、社の荒廃を嘆き、同年9月に現在地、玖珂郡久重山に遷座し、拝殿・幣殿を寄付、翌年には鳥居を建てました。代々の領主も社殿の修理に努め、また地方民の崇敬も厚く、玖珂六郷の総氏神として崇められました。氏子は53ヶ村にわたっていたようです。なお、昭和の初めから終戦まで県社となり、現在も町民をはじめ近郊の方々から崇敬されている八幡宮であります。 由緒書 |
岩隈八幡宮 岩隈八幡宮保存修理及び周辺整備にするご寄付のお願い 当宮は、元々熊毛神社と呼ばれていた神社で、和銅七年(西歴714年)宇佐八幡宮の勧請により岩隈八幡宮という名称になつた県下では数少ない由緒ある社であります。 現在の社はもと下祖生岩隈山(周東町祖生)にあったものを元禄4年(西暦1692年)に領主吉川広紀が当社を参詣し、社の荒廃を嘆き、同年9月に現在地、玖珂町久重山に遷座し、拝殿・幣殿を寄付、翌年には烏居を建てたものです。そのため遷座以来長年の風雨による傷み甚だしく、屋根瓦も落ちかけて、王垣は落ちてとても危険な状態にあります。又当宮社務所(神社の社務を行い、神札授与や祈祷受付を行うところ)も長年の風雨で傷み、本来の社務所の機能をはたせる状態では御座いません。 当宮においては、総代会などを行うための参集所というものも無く、当宮宮司私宅にて参集をするという形をとっています。 また、平成13年3月24日の芸予地震において、灯寵、鳥居、玉垣などが倒壊し、参集所並びに社務所代に使用していた宮司宅も半壊してその役目を果せないでいる状態です。 2014年(平成26年)に八幡宮勧請1300年祭を迎えるにあたり社殿の修復、社務所の修復及び参集所の設置を行い、盛大なる記念大祭を斉行いたしたく思います。 しかしながら、神社現有の資産のみでは今回の平成の大修理に要するすべての費用を鮪う事叶わず、広く玖珂町氏のみなさまをはじめとして玖珂町のゆかりの方々、企業各社各位並びに行政に携われる御各位のご協力を仰ぎ申し上げる次第に御座います。 社頭掲示板 |
岩隈八幡宮 周防国玖珂郡玖珂六ヶ郷総社 正一位岩隈神社。鎮座奉る神九座。 岩熊宮三座。各神体の笥、木瓜形黒漆封小穴二つ。米八升懸目あり。 中、三毛入野神。左、磐余彦神。右、玉依姫神。この三神の神体は秘物にて代々社司も拝せず。 殿に御戸の無き。遷宮の時、神輿に遷し奉るに甚重し。 八幡太神三座。各白木の社造り。扉あり。冠装束の木像なり。 中、誉田別尊。左、足中彦尊。右、気長足姫尊。以上六座、大玉殿の中に御座也。 (前文略す) 昔、祖生村の岩熊山に有る岩の上に初めてこの神影向ましますを、西南の高山の末の岩の上に猿出て、日々拝礼をなしけるを里人あやしみて、御神の化現たまふことを知れりとぞ。 今に影向石と云。岩熊宮と称し奉る故は、彼の石、熊の形に似たるに依て也。後に岩隈と書く。 猿拝みたる高山の末をば今に至るまで猿拝と云。(途中略す) 又、鈴柿あり。是は往古この木に鈴下がり、夫より鈴のごとく年々柿なりて有りし由、申し伝ふ。(中略)九座の神を岩熊山に下つ岩根に宮柱太しく立て御座す由、天平四年の神門の棟札今に残れり。(中略)その後、元禄四辛未夏五月四日、領主吉川広紀君この社に詣でたまふ。 その年の秋九月、今の久重山に遷鎮め奉る。この久重山、昔は白重山と云。 境を立て、末は大岩境。西は谷限。東は清水谷限。小丸山続きに神山と除きたまふに依りて、山の形久文字に似たる故、儒士宇都宮遯庵、久重山と改めたまふ。 玖珂郡志 |