賀茂神社
かもじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】熊毛神社 周防国 熊毛郡鎮座

   【現社名】賀茂神社
   【住所】山口県柳井市伊保庄近長538
       北緯33度54分55秒、東経132度7分24秒
   【祭神】玉依姫命 別雷命 三毛入野命
   【例祭】10月9日 秋季例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】もとは大星山頂にあった
       寛治七年(1093)京都の賀茂神社の分霊を当地に奉祭
       明治6年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは大星山頂にあった
        その後(年代不詳)賀茂神社に合祭

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「賀茂神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】八幡宮

当初は南に見える大座山の山上にあった、その後奉仕の氏人を失って荒廃した為賀茂神社に合祭した。
伊保庄が京都賀茂別雷神社の荘園だったために奉斎された。


由緒

堀河天皇の寛治7年 万民安泰 五穀豊饒の為め、帝は京都の賀茂神社に宮中武徳殿の競馬の行事を奉納して執行されることになりました。その御料として全国から二十二ケ所の荘園を寄進されましたが伊保庄はその内の一荘であります。荘園の役人と共に多くの社人たちが下って当社を奉斉し、伊保庄五ケ村の氏神として崇敬を聚めたのであります。以来京の御本社と変りなく一年三十三度の祭典も丁寧に執行されました。京都に於ても五月五日の競馬の節会には、二十ケ荘の馬二十頭によって、二頭宛組合わせて十番の競馬が行われて現在に続いて居ります。
京都の賀茂神社とゆかりの深い社は、中国筋では播州室津の賀茂神社とこの社が最も都に知られているので、都人たちが附近通行の際は懐かしさによく参詣されました。明応九年足利十代将軍義植が下向の途中柳井津に滞溜した節も、同行の三条左大臣公頼、近衛中将二条良豊、持明院中納言基規の三卿が、足を運んで参詣された記録が伝えられています。
この社には賀茂神の外に、神武天皇の御弟三毛入野命がお祭りしてあります。三毛入野命は南に見える大座山の山上にあった、国弊を以て祭られる延喜式内社熊毛神社の祭神であります。この社は鎮座以来二千年近くも経っているので、途中奉仕の氏人を失って荒廃した為当社に合祭したものであります。
従って当社の祭神は
別 雷 命   賀 茂 神
玉 依 姫 命
三毛入野 命    熊 毛 神
の三柱で、玉依姫命は別雷命の御母神に亘らせられます。この地の産土神として鎮まりまして殆ど九百年、明治六年には郷社に列せられました。その御神徳としては、賀茂神は代々の帝も国に大難ある毎に祈願を篭められた万民安康五穀豊饒の守り神であり、熊毛神は神武天皇御東征の途中、大暴風に遭って船隊覆滅せんとする時、身を犠牲にして海中に身を投じ、全軍の安泰を計られた交通の守護神であります。社殿は天保12年に拝殿が再建され、神殿は明治32年再建遷座が行われました。その結構造作彫刻は近郷の名工と謳われた、大島郡の門井宗吉の主宰する処で、近世の名作として識者の三嘆を惜しまぬものであります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




賀茂神社

伊保庄賀茂神社由緒
勧請
当社は平安時代後期、堀川天皇の寛治7年天下安泰五穀豊饒の御祈頼のため、宮中武徳殿の競馬会の行事を京都の賀茂神社に移し奉納されました。 その馬料として全国から二十箇所の荘園を寄進され、当地はその一荘で分霊を捧持し伊保庄に奉斎されて九百年を迎えました。
本社では5月5日の競馬の節会には、二十箇荘の馬二十頭、伊保庄馬も加わり、二頭組合せ十番の競馬が古式豊かに、現在も毎年続いています。
そのため、足利10代将軍義植を始め多くの公卿や都人たちが参詣した記録も伝えられています。
祭神
別雷命 玉依媛命 賀茂神
三毛入野命    熊毛神
玉依媛命は別雷命の御母神で、古代山城国の賀茂氏族。九州の日向朝東征時に大和豪族の帰順に協力した京都の上、下賀茂神社の祭神であるが、当地に勧請され、伊保庄の産生神として、明治6年郷社に列せられた当地の守り神であります。
三毛入野命は東征の途中、大暴風に遭い身を犠牲にして全軍の安秦を計られた交通の守護神で熊毛神社の祭神であります。
社殿
奉斎後、鎌倉、室町、江戸の時代を経て、幾度かの改築、修理が行われていますが、現在の拝殿は天保12年に再建、神殿は明治32年造営。
その造作彫刻は名工と謳われた大島郡の門井宗吉の主宰したもので、その荘重典雅な姿はよく環境に調和し、識者の三嘆を惜しまぬ近世の名作であります。
平成13年900年祭に際して、神殿の葺上げを始め各社殿の全面的改修修理を、氏子一同のご協賛を得て、一層の壮麗な美しさを後人に伝え読けることのできた事、嬉しい極みです。

社頭掲示板



賀茂神社

有形文化財(建造物)
賀茂神社の石烏居
市指定 昭和60年9月5日
この石烏居は、寛永14年(1637)に当時伊保庄(阿月)へ上関から移封された乃美元貞(後の浦元種)が願主となつて、石大工薩摩の住木賀兵衛尉が小工十人とともに建立したものである。花崗岩製で、賀茂神社の境内の入口に建つ。
形式は明神烏居で、烏居の高さに比べて柱間が広く、柱脚は隅丸型円柱状に作られ、全容が重厚で安定感がある。また笠木と島木が一石で作られ、のびのびとして端正な姿でよく古風を残している。
県下に遺存する在銘年号の明らかな石烏居の中では、防府天満宮の石大鳥居についで二番目に古いものと思われる。
銘文は次のとおりである。
(正面向つて右柱)
「右意趣者護持信心願主平之朝臣」
「奉造立賀茂犬明神寳前石之華表一宇」
「乃美孫兵衛尉元貞武運長久子孫繁昌祈」
(正面向つて左柱)
「薩州石大工木賀兵衛尉」
「于時寛永十四年八月吉日」
「小工十人」

社頭掲示板



賀茂神社

市指定天然記念物
伊保庄賀茂神社の社叢
平成2年3月14日指定
所在地柳井市大字伊保庄235・236−2
社殿の奥に広がる、約12000uの社叢である。
高末層には、スジダイ・タブノキ・モチノキ・ホルトノキ・ヒメユズリハ・クロガネモチなど、亜高木層にはクロキ・カクレミノ・ヤマビワ・ヒサカキなど、低木層にはクロキ・モチノキ・ヒサカキ・シャンシャンボ・ヤマビワ・タブノキ・オガタマノキ・イヌビワなど、草木層にはべニシダ・ウラジロ・オオイタチシダ・ヤブコウジ・ササ類・ツワブキなどがある。
概して巨木・大木が多く、植物の種類も多い。更に注目すべきは南方系のヤマビワ・オガタマノキ・ホルトノキなどがあることである。
樹林の発達のよさ、種類の多さ、希少な種があるなど植物学的に優れており、価値の高いものである。
柳井市教育委員会

社頭掲示板



伊保庄賀茂神社

伊保庄近長と阿月の相浦に賀茂神社が鎮座するのは、伊保庄が京都・賀茂別雷神社の荘園となったからである。伊保庄賀茂神社は今の伊保庄、阿月(相浦を除く)、平生町の秋森および 小郡の氏神である。その鎮座は社記および防長風土注進案によれぱ、1087年(寛治元)、京都下賀茂社勧請と記載されているが確証はない。恐らく誤りであろう。
 伊保庄が賀茂社の荘園として確認されたのは、それより6年後、堀河天皇の寛治7年(1093)宮中武徳殿の行事である「競馬の式」を賀茂社において移し行なわれ、その馬料として諸国の荘園二○ヵ荘を寄進せられた。伊保庄はその一荘であり、伊保庄の名が史上に見えるのはそれ以来のことである。 賀茂神社の伊保庄鎮斎もその後のことに相違ない。当社の祭神はその後において熊毛神、三毛入野命が合祀されてつぎの三座となった。
三毛入野命 別雷命 玉依姫命
風土注進案はこの祭神を、三毛入野命、日本磐余彦命、姫鞴五十鈴姫命の三座としている。これは注進案の編纂された天保の末年、1840年ごろに「上賀茂は神武天皇、下賀茂は瓊々杵命を祀る」という俗説があったのに従ったもののようであるが、社家の古記録はいずれも前掲の三神となっている。これに従うべきである。(略)(『柳井市史各論篇』より)

山口県神社誌



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