称徳天皇の時勝間村清霊丘の松の枝に鏡があって毎夜光を放った。その後里人により社殿が建立された。 |
熊毛神社 熊毛神社 字勝間に鎮座。祭神は御毛入沼命、玉依姫命を主神とし、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。もと勝間八幡宮と称した。 『注進案』によれば、周防一宮厨子大神といい、称徳天皇の時勝間村清霊丘の松の枝に鏡があって毎夜光を放ち、当山の鎮護大戸道尊と名のる老翁が一人現れ、この鏡を神光霊照鏡と号した。この時鏡より大戸道尊と一礼分身の八幡大神という一人の童子が現れ、此の山を亀井山と唱え、社殿を建つべし、そうすれば永く宝柞延長国家安全を守るべしと告げ飛び去ったという。その後里人により社殿が建立され、また八幡宮の本地は阿弥陀仏の化現であるというお告げにより、新たに神光霊照鏡守護の堂場として神光院が建立された。 その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、当杜の棟をみていかなる名称かと秀吉が里人に聞いた際、葛間八幡宮と答えたという。戦争に出る時、縁起が良いというので祈願し、境内の竹林から旗竿十二本を切った。帰陣の際、秀吉は再び寄り、「寺社由来」によれば神馬一疋、太刀一腰、箕六本、八幡御幸の絵、両部の曼茶羅、百石の判物を寄付したという。 この時、諌鼓踊と名づけた踊を奉納したという。これが七年ごとの秋季例祭、10月11日に現在行われるものである。踊りの種類は次のような構成からなっている。 一、こうかん 二、こうかん裏 三、なむあみとう 四、なむあみとう裏 五、みせがね 六、やつばち 七、小みだれ 八、踊りの終了 九、僧の掛声 構成負は次のとおり。手木男一人、旗持男一人、ほら貝ふき男一人、杖術者男二人、大聖男一人、小聖男一人、音頭難男二人、踊子男子十二人(7〜12歳の長男)。 社頭掲示板 |
熊毛神社 式内神社であるが、創立年代は不詳である。奈良時代の天平十年(七三八)の『周防国正税帳』に、「熊毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とある。その後、大内・内藤・毛利氏等の厚い崇敬を受け、安土桃山時代の天正17年(1589)の検地には、「田六町五反十歩、畠四反」の神領があった(熊毛神社文書)。また、江戸時代には社殿の再建や修理に、藩主の多額の寄進がみられる。明治6年(1873)郷社に列し、大正4年(1915)県社に昇格する。現在の社殿は、本殿を明治19年(1886)、拝殿を同30年(1897)に再建したものである。宝物として、大内弘貞・内藤興盛・毛利輝元等、多くの古文書を有する。 山口県神社庁 |
周防国造在所之地 応神朝に加米乃意美が地方行政の長として初代周防国造に任命されこの地に派遣された尚大化の改新には熊毛郡家がおかれ1650年には熊毛宰判勧場の所在地となった 爾来政治文化の中心として由緒深い地である 社頭石碑 |
手洗川の由来 今からちようど400年の昔(文禄元年、1592)、豊臣秀吉は朝鮮進出のため兵を起こし、自らも大阪から肥前名護屋城(現・佐貿県東松浦郡新鎮西町)の本営に向かいました。 その途中、秀吉は羯摩八幡宮〔勝間八幡宮、現・熊毛神社)に立ち寄り、勝利を祈祷しました。 翌年(1593)秀吉は、大阪への帰り道、再び羯摩八幡宮へ立ち寄り、神馬や太刀などを寄進して戦勝のお礼参りをしました。 これに先立ち、秀吉は八幡宮の西万を流れるこの川で手を洗い、身を清め心を清めたといいます。それ以来、村人達はこの川を「手水川(ちょうずがわ)」と呼ぶようになりました。 現在ては「手水川(てあらいがわ)」と呼んでいます。なお、「手水川」の西に隣接する「御所尾」(御所の原・御所ヵ尾・御所尾原)の地名は、秀吉が八幡宮に参拝するため、休憩の陣を構えた所と言い伝えられています。 平成4年9月吉日 社頭掲示板 |