かつては長倉神社熊野宮または長倉山熊野大権現と称した、また碓氷神社、熊野大権現とも呼ばれたが、1868年(慶応4年)に熊野皇大神社に改称した。 第二次世界大戦後に宗教法人法が制定された際、都道府県ごとに宗教法人の登記がされることになったため、ひとつの神社でありながら県境を挟んで、長野県側が熊野皇大神社、群馬県側が熊野神社という別々の宗教法人となった。そのため、一つの神社だが、宮司や社務所、賽銭箱、お守り、ご祈祷は別々である。 式内社長倉神社の論社である。 古代の東山道は当社の南方の入山峠を通っていたと考えられ、中山道にあたる新道が開通した時に現在地に遷座したという説もある。 |
由緒 当神社は長野県、軽井沢の氏神、長野県熊野皇大神社であります。当社の創立はその由緒記によれば「人皇12代景行天皇の御宇日本武尊東夷征伐凱旋の際、武蔵、上野を経て碓氷山嶺に登り給う途、坂本に到り餉いし給える時き、荒ぶる山神白鹿に化けし尊を苦しめんと御前に来たりしを、其眼に蒜を打付け殺し給う。(徳側幕府の時北山中に住める白鹿禁役の制ありしは之に起因す)此の時雲霧忽ち道を遮り咫尺を弁ぜず(霧積山の唱今にあり)尊道に迷い給える八咫烏紀の国熊野山の梛の葉を噛み持ち来たりて尊の御前に落とし、尊を嚮導する状なれば夫れに随いて嶺上に達し給う。 時に雲霧全く晴れる。尊東南の方を望観し紀橘媛を偲び給い、三嘆して曰く「吾嬬者耶」と。是より坂東の諸国を吾妻と云う事起これり(日本書紀及び諸史に見ゆ)。しこうして尊曰く大祖神武天皇八咫烏の嚮導により熊野山を越え大和の士賊を全滅し玉えり、今我東夷を平定しここに八咫烏の瑞相に応ぜしは、正しく熊野神霊の加護ならん事を知食し、熊野三社を勧請し給えり。時は景行天皇40年10月なりしという。夫れに例し毎歳10月15日当社の大祭典を行う。ここに奇異なる神業ありしは、古来毎年6月15日当時大祭典の早曉紀の国熊の山より当社内へ椰の葉降り来たれり。又10月15日朝当社の笹紀州熊野神社へ降るという云う。彼八咫烏止りし岩を烏岩と呼び(当社近傍東北方にあり)其岩より流出する河流を烏川と云う。当社神璽として古来日本太一熊野午王と称し烏の群れたる形の刷り物を出す、是れ其八咫烏の因縁なり、尊の登山の古事を伝えて頂上を止夫山と云い、又尊の嘆き給いしを以て『ナゲキアル山』の略語にや当社の裏山を長倉山と唱う」とある。 古来当社は災厄消除農作増産の守護神として公卿、武人農家の尊崇厚く殊に当嶺中仙道の嶮所として江戸時代交通の要所となるや参勤交替の諸大名をはじめ衆庶の参詣ひきもきらず「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と追分節に唄われて其御神徳をたたえ奉った。特に農家においては当神社の御神符烏午王を受け毎年春、田の水口に串にはさんで立て増産を祈るを例とする。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
熊野皇大神社 軽井沢の氏神 当神社は碓氷峠頂上 標高1200mに位置し、自然豊かな軽井沢に鎮座する神社です。また、当神社は、全国的にも珍しい県境、お社の中央で長野県と群馬県に分かれた神社です。 ですので、一つの神社でありながら2つの宗教法人がけんざいし長野県熊野皇大神社と群馬県熊野神社に分かれております。その為、神社をお護りする宮司も2人おりそれぞれ神社のお祀りを行っており、御祈祷・お守り・社務所も別になっております。 由緒 神社に伝えられている由緒記また、古事記 日本書紀によると、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が碓氷嶺に登った際、急に濃霧で進めなくなった。そのとき一羽の八咫烏(ヤタガラス)が現れ、紀州熊野の梛木(ナギ)の葉をくわえ、落としながら先導し、それについて行き山頂まで登ることが出来た。日本武尊は碓氷峠の山頂から遠くの海を眺め、相模灘で荒波を静める為に海中に身を投じた最愛の妻、弟橘姫(オトタチバナナヒメ)を偲び「吾嬬者耶(アヅマハヤ)」「ああ、いとしき我が妻よ」と三嘆したと伝えられている。この事から、この山を「長く悲しんだ山」と言うようになり、それがにごり長倉山になり 軽井沢では、[長倉]の地名が多い。また日本武尊にちなんだ地名として[霧積][吾妻][嬬恋]もある。日本武尊はこの八咫烏の導きを熊野神霊の御加護によると考え、ここに熊野三社を祀った。人皇十二代景行天皇の御代に勧請した。 公式HP熊野皇大神社(長野県) |
熊野皇大神社 県境に神社が建つ「いわれ」・その意義 当社は群馬県と長野県の県境(江戸時代は上州と信州の国境)に鎮座しています。ここではそのいわれと意義についてご案内致します。 実は、県境に建っている「いわれ」や「意義」は明確には分からないのが現状です。しかし遡って、当時の時代背景を想像し、時代ロマンに思いを馳せてみましょう。 さて、元々山は山の幸を戴き、豊かな水を戴く生命の根源の聖地であり、従って神様の住む場所として昔より崇められて来たことは、碓氷峠に限ったことではありません。 さらに、明確な地図を持たない昔は、峠を制することはその先の地域を制する為に欠かせぬ要素だった分けです。つまり峠は軍事的な要所だった分けです。ましてそこに日本武尊(大和朝廷の東征の使者)が勧請した神が祀られているとなれば、両国ともに手中に収め、その神徳を戴きたいと思うのはごく当然であったとも思われます。 そんな分けで、戦国時代には国境が激変し、武田信玄は広大な社領を神社に寄進したと伝えられてその地名(=鳥居坂から、鳥居原まで)も残っております。 その後、江戸時代の初めに中仙道の整備と共にお宮の真中を改めて上州と信州の国境にしたのだろうと言われています。そしてそれがそのまま現在の県境となった分けです。 私共神職は上州でも信州でも共に「峠山(とうげさん)」と呼ばれ、人間社会のルールの為に2法人となっていますが、信仰上に境が在るわけではなく、「二世安楽」を叶える峠の権現様として里人の信仰を集めています。江戸時代上期の全盛期には信州および関東に10万戸の氏子を持ったと伝えられています。そして春秋の例大祭では現在でも両県の神職が一緒に御奉仕を致します。 今でも上州と信州では、宵越しの金を持たない上州人に対し、がっちり賢く貯め込みタイプの信州人とそのお国柄(県民性)も異なりますが、「共に相手を認め合って仲良くやっていきましょう」という平和の象徴的存在として神社が県境となっていると考えれば、肯ける気も致します。 神社の縁起によれば、景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かった。折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、梛(なぎ)の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができた。尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まり。 公式HP熊野神社(群馬県) |
熊野皇大神社 当地往来開発の当初より守護神として奉斎され、古来より峠さま・峠さんとかの地で崇敬される。 本社は日本武尊の勧請にして、人皇12代景行天皇40年6月なりと言い伝われている。 御尊が碓氷坂に差しかかったとき、八咫鳥(やたがらす)が紀州熊野山の梛の葉をくわえ、案内する、尊は碓氷嶺に立ち、棚な引く雲海より弟橘姫を忍ばれる。このお導びの八咫鳥の霊力にあやかり、烏午王(からすごおう)の御神札が古来より家々の守り神として、家の入口や田の水の取り口に串にて奉斎され農耕信仰の一つとして(御田遊びの特殊神事・6日年祭)今日に致る。 万葉集「ひなくもり宇須比の坂を越えしだに、妹が恋しく忘らえぬかも」(巻20)と歌われ、古来より峠往来信仰がかいまみられる。 長野県神社庁 |