新海三社神社
しんかいさんしゃじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】英多神社 信濃国 佐久郡鎮座

   【現社名】新海三社神社
   【住所】長野県佐久市田口宮ノ沢2394
       北緯36度11分46秒,東経138度30分44秒
   【祭神】興波岐命 健御名方命 事代主命 譽田別命
   【例祭】10月1日近い日曜日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創祀年代不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】天神社・絹笠神社・福田稲荷神社・榊神社

新海三社神社は、佐久郡伴野庄・平賀庄・大井庄の三庄の総社で式内社英多神社・長倉神社・大伴神社を併せ祀っている。
江戸時代には、佐久の式内社に新海三社神社が含まれていないことから、佐久の総社たるこの古社こそ式内社であるべきだとして、論争が起こっている。


由緒

新海三社神社略記(元県社)
新海三社神社略記
古来佐久の総社の称ある・重要文化財二を存する
一、御祭神
興波岐命(東本社)健御名方命(中本社)事代主命、誉田別命(西本社)
二、創立
健御名方命の御子興波岐命(おきはぎのみこと)は新開神(にいさくのかみ)・大県神・八県宿禰神(やのあがたすくねのかみ)等とも称され、田口に本拠を構えて千曲川等の河川の氾濫原や平地を開拓した集団の長であり、佐久地方開拓の祖神として古墳時代にこの地に祀られた。八県宿禰神は貞観10年(868)正五位下を授けられている。田口には古墳が多く、神社付近の英田地畑古墳から蕨手刀が昭和40年に出土し、有力高貴な方が住んで居たことが証明された。神社周辺の社地にも古墳が三つある。
三、新海三社神社と称し佐久郡の総社であったこと
健御名方命と事代主命は国土経営に大功をたてられ、興波岐命の御父神、御叔父神であらせられるのでともに齋祀して新海三社神社と称するに至った。佐久郡の人々は興波岐命の神恩に感謝し、祭典も盛大に行われ佐久郡の社家は佐久郡三庄三十六郷の総社である当神社の祭典に出仕した。
御神幸は往時、岩村田・春日・志賀・上平尾・余地等に出掛け、古くは東部町本海野への御神幸があった。神主が御霊代を奉じて騎馬にて御神幸(巡行)し御神幸先には御仮屋を建て神事を行った。延喜式内社の英多神社であるという説もある。
四、武将の崇敬が篤かったこと
源頼朝は草津方面に遊猟の節当神社に参詣、源氏の祖神誉田別命(八幡さま)を祀るよう沙汰されると共に社殿を修理再建し社領を寄進した。足利氏も当神社のことを沙汰し、武田信玄は永禄8年(1565)上州箕輪城攻略の際祈願文を奉り、天正年間には修築を行わせている。徳川氏も造営の内助費を下付し、竜岡藩主も祈願所とし、鉾、手水舎等の寄進や修復の寄付などしている。
五、重要文化財
(一)三重塔
社伝によると嘉祥2年(849)東隣にあった神宮寺の塔として建立されたものであると言われる。様式上からは室町期のものと認められ、明治40年に国宝に指定された重要文化財である。全高約20m、和様を主とするが唐様(禅宗様)も混在し、初重(唐様)と二、三重(和様)の垂木の方向の違い等にそれが見られる。
(二)東本社
建てたのは三重塔と同時代と見られ、昭和12年に国宝に指定された重要文化財で一間社流造りである。注目されるのは木鼻で、母屋木鼻には笹の葉の薄肉彫りがあり、向拝木鼻は、木鼻の形が獣面化しだした初期のものである。
(三)御魂代石(みたましろいし)
中本社と西本社の間にある石幢形の石造物を御魂代石と呼んでいる。町指定有形文化財。幢身に左右相称の神代動物が彫られ、其の間に延文3年戌3月12日(1358)の刻記がある。この石に耳を当てると諏訪湖の水音が聞こえると伝えられ、諏訪湖の御神渡りに毎年湖上にて参会される新海大神の姿がしのばれる。
六、主な年中行事
・1月1日歳旦祭・六月末(日)茅の輪神事
・1月6日御田植祭、筒粥神事・9月1日風切祭
・1月15日御神符祭(おみふさい)・10月1日秋祭(例祭)
・1月末(日)天神社合格祈願祭・11月中旬(土・日)七五三
・4月12日春祭・12月31日二年参り

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




新海三社神社

当社は、佐久地方開拓の祖神である「興波岐命」と御父神「建御名方命」(諏訪さま)、御伯父神「事代主命」(恵比寿さま)「誉田別命」(八幡さま)の四神をまつる佐久三庄三十六郷の総社である。
古来、武将をはじめ人々の崇敬あつく、源氏、足利氏、田口氏、武田氏、徳川氏、大給氏らが社領寄進・神殿修理再建等を沙汰している。わけても源頼朝は源氏の祖神「誉田別命」をまつるべく沙汰し、甲斐源氏の流れをくむ武田信玄は永禄8年(1565年)上州箕輪城攻略の際、戦勝祈願文を奉り見事勝利をおさめている。
 三重塔(嘉祥2年=849年)、東本殿(室町 時代・信玄再興)は重要文化財、御魂代石は重文指定申請中である。
例  祭
4月12日 10月1日
特殊神事  御田植祭 1月6日
御神符祭 1月15日

社頭掲示板



新海神社三重塔(重要文化財)

新海三社神社の神宮寺の塔として建立され明治維新の排仏毀釈の際には神社の宝庫として破却をまぬがれた。 風鐸の銘により永正12年(1515)の建立と考えられる。様式は和様を主としながらも随所に禅宗様が取り入れられて居り、初重と二三重の垂木の方向の違いなどにそれが見られる。

社頭掲示板



新海三社神社宝庫

重要文化財
新海三社神社宝庫(三重塔)
明治40年8月28日 指定
三間三層塔婆、屋根柿葺
 社伝によると、嘉祥2年(849年)に創立し、文明(1469−87年  室町時代)年間に修理したとあるが、この塔は、様式、手法上から室町中期のものと推 定されるので、おそらく文明の頃再建されたものであろう。 形がよく整い、温雅の風調があり、相輪に至るまでよく創建当所のものが保存されている。

社頭掲示板



新海三社神社

新海三社神社は、その創建は不詳ながら、興波岐命(おきはぎのみこと)を主神として東本社に祀り、その父神・建御名方命を中本社に、伯父神・事代主命を西本社に祀ります。
特に興波岐命が、新開神(にいさくのかみ)とも称されることにより、「佐久」の地名の由来ともいわれるほか、諏訪湖の御神渡の「佐久の渡」は、興波岐命が湖上にて父神とご参会された跡とされています。
古来佐久三庄三十六郷の総社と言われた新海三社神社は、広大な社地を有し、境内の古墳からは蕨手刀(わらびてとう)が出土や、武神としても崇敬あつく、源頼朝による社殿の修理再興の口碑、武田信玄が箕輪城攻めの際における戦勝祈願の願文も残されています。
入口の大きな鳥居をくぐると遠くに大ケヤキと大スギが立ち並ぶ参道が暗い影を落としています。
その先の石段を上ると、拝殿が正面に見え、その脇には神楽殿があり、非常に静かな佇まいは、とても落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。
拝殿と神楽殿は共に木造の簡素な装飾で、大きな社叢の中に静かに鎮座しているように見えます。
拝殿後方には、西本社、中本社、東本社の三つの社殿が並んで建っており、素木で作られた拝殿の質素な雰囲気とは一変し、西本社と中本社は朱と彫刻が見事な流造となっています。
また、西本社と中本社の間には、御魂代石(みたましろいし)の石幢(せきとう)があります。
一番右の東本社は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)・桧皮葺(ひわだぶき)で、母屋の柱貫木鼻(はしらぬききばな)の笹模様などに時代的な特徴が示され、国の重要文化財に指定されています。
当社の奥には、室町時代末の永正12年(1515年)の建造物で、東社と共に国の重要文化財として指定された三重塔があり、その建築様式は三間三重塔婆(さんけんさんじゅうのとうば)・柿葺(こけらぶき)で、禅宗様と和様を折衷した建築当時の特性をよく示しています。

佐久市HP



新海三社神社

創立 健御名方命の御子興波岐命は新開(ニイサク)神、大県神、八県宿弥神とも称され、田口に本拠を構えて千曲川等の河川氾濫原や平地を開拓した集団の長であり、佐久地方開拓の祖神として古墳時代にこの地に祀られた。
佐久郡の総社であって、昔は祭典も盛大に行われ、佐久郡の社家は当社の祭典に出仕した。
文化財 東本社(国指定重要文化財)−間社流れ造向拝、母屋の木鼻に特色がある。
三重塔(国指定重要文化財)神宮寺の塔で和様を主とするが、禅宗様もまざっている塔その他文化財多数あり。

長野県神社庁




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