神社より約300m離れた処に里宮がある。 里宮は鎮座当時よりの社家白川氏の隣接地という。 |
英多神社 延喜式内社 英多神社 由緒 御祭神 建御名方命 鎮座地 長野県佐久市安原 英多澤1669番地 例祭 4月7日(八幡社) 9月第3又は第4日曜日 社格 旧村社 由緒 本社は、平安時代初期の延喜式神名帳に記録が残る古社であり、古くから当地の崇敬を集めている。延喜式が撰進された延長5年(927)から時代を降り、当地が大井氏の治下にあった建武年間(1334〜38)及び文明年間(1469〜87)の二度に亘る兵火により社殿を焼亡。その後、隣接する安養寺(臨済宗)において守護奉仕されていた永禄年間(1558〜70)に該寺もまた兵火に罹り(かかり)、この時本社の什宝古書類すべて焼失した。そのため、江戸時代に佐久郡内の神社間で式内社格の争いが起きた。 しかし、『大日本史』神祇志に「佐久郡内の式内社三座内の一座英多神社、今、安原郷英多澤に在り」との記録があり、これに加えて、式内社格願書に対し、寛政10年(1798)には、佐久郡の神主一同が調査し、その結果本社が式内社英多神社と決定した。 なお、本社の創建は馬場地区にある市指定史跡大塚古墳(6世紀末〜7世紀初築造)の被葬者一族と関連があるとも云われている。また、秋季例祭前日には、お舟神輿が安原区内へ渡御、翌日里宮から本殿に還御するお舟祭りが古くから続いており、この由来も定かではないが、古来より当地付近にあった湖が干拓され、舟が不用となった後にもお舟に感謝し、五穀豊穣を願い始まったとも云われている。 本社は、承久の乱(1221年)後、大井朝光が大井庄領主となるに及んでその崇敬を受け社殿を改興、神領の寄進あり。永禄6年(1563)には武田信玄が上州南牧城征服の帰途、奉賽のため太刀を奉納。天正11年(1583)には依田平三昌秀より神領の寄進あり。また寛永7年(1630)には徳川家より幣帛を賜り、その後も同家代々の信仰があった。 現在の本殿は、文化3年(1806)11月の建替で、槻を用材として精巧な彫刻を施している。なお本社は、往古、大和国大神神社(三輪神社)大物主命を合祀していたと云う。そのため、平成2年建替前の拝殿の構えは三輪造りであった。 平成24年12月 英多神社 社頭掲示板 |
お舟祭り 佐久市安原区の英多神社の秋季例祭に合わせて行われる「お舟祭り」は18日に開いた。佐久市望月の「榊祭り」、御代田町の「龍神祭り」と並び、佐久地方の3大奇祭のひとつと言われる祭りだ。 舟をかたどった神輿(お舟様)に「御霊代(みたましろ)」と呼ばれるご神体を乗せ区内を巡幸。▽宿▽馬場▽原―の区内の3つの「お旅所」を巡った後、御霊代はお舟様から神官の懐へ移し、一足先に里宮まで戻る。 御霊代が不在となったお舟様は、担ぎ手の若衆が地面に落とすなどして壊しながら里宮まで戻るが、御霊代のあった祠が壊れれば壊れるほどその年は豊作になると言われていることから、担ぎ手が激しくお舟様を担いで落とす様子は、祭りの大きな見どころのひとつでもある。戻ったお舟様は里宮にいったん安置。翌19日に祠を組み直し、再び御霊代を納めてから本殿に戻して祭事を終えた。 お舟様を担ぐ若衆は、お旅所のある3つの地区が当番で行っていたが、最近は人数不足もあり、「英優会」(中澤隆弘代表)なる担ぎ手の集まりを組織。年齢制限などもなく、「地域住民で担ぎたい人が担ぐ」体制を整えている。 神輿が舟の形である理由は諸説あるが、かつて同地区は湖があり、舟を使うことが日常的であったことが有力とされている。 小諸新聞2016-09-25 |