子檀嶺神社
こまみねじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】子檀嶺神社 信濃国 小県郡鎮座

   【現社名】子檀嶺神社
   【住所】長野県上田市武石小沢根 230
       北緯36度16分45秒,東経138度13分59秒
   【祭神】健御名方刀美命 倉稻魂命 八坂刀売命
   【例祭】4月第1日曜日 例祭
   【社格】
   【由緒】和銅5年(712)創立
       大同元年(806)健御名方命・八坂刀売命を合祀
       元暦元年(1184)本殿及び拝殿修理
       天文4年(1535)依田川の洪水のため社殿流失

   【関係氏族】
   【鎮座地】和銅5年(712)武石村沖の五日町地籍に鎮座
        和銅5年山城國紀伊郡稲荷山からの勧請
        天文4年(1535)依田川の洪水のため社殿流失
        現在の地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所

   【境内社】

初め同村五日町に祀ったが天文4年(1535)の洪水の後大井信広が現地へ遷という。
奥社は子檀倉岳山頂、中社(駒形神社)は余里にある。


子檀嶺神社

武石村無形文化財 第一号 昭和46年2月15日指定
子檀嶺神社御柱祭行事
子檀嶺神社の御柱祭はいつの頃から始まったかは詳らかでないが、今までに発見された記録の中では天明2年(1782)のものが最も古いとされている。しかし子檀嶺神社は諏訪下社と関係があったことから推測してもっと以前から行われていたことは疑う余地がない。
爾来武石八ヶ村の御柱としての祭事であったが御ねり行列のみは宮もとである小沢根・余里の区民によって伝承されてきた。しかしこれも昭和43年より武石村全村民で執行されることになった。
御柱祭行事は注連張式に始まって斧入式・山出祭・里曳・本曳・御柱樹てに終わる一連の行事である。本曳は本祭当日に行われ御ねり行列が奉納される。
本祭は寅年・申年の4月に執行され注連張式は前年の春・斧入式・山出祭・里曳はその秋に行われる。御柱の丈は寅年が偶数尺・申年は奇数尺となっている。
子檀嶺神社に奉納される御ねり行列は百万石の大名行列を模したものであり格式の高いものであるといわれている。この行列中に「おかめ」「ひょっとこ」(瓢振り)の余興が入っているのが特徴である。
行列は社名旗、大麻司大祭委員長(村長)御神輿先堅と続きその後に古式ゆかしい御ねり行列(350人)が「ねり」をねりながら延々と続く、その後から数百の曳子(氏子)によって御柱が境内まで曳かれ樹立されて御柱行事は終わる。
昭和55年2月20日 建之
武石村教育委員会

社頭掲示板



子檀嶺神社

 式石郷八ヶ村の産土神として信奉されている子檀嶺神社は、奥宮である子檀嶺獄山頂の子檀倉社、中宮である余里の駒形神社、里宮である当社からなっている。御祭神は、奥宮は宇賀御魂神・高れい神、中宮は建御名方刀美命、里宮は宇賀御魂神、建御名方刀美命、八坂刀賣命の三柱である。 和銅5年(712)に山城国紀伊郡稲荷神社より宇賀御魂神を子檀嶺獄山頂に鎮座しこれを奥宮と称し、里宮は旧下武石村五日町に御遷座お祀りしていた。大同元年(806)3月15日当国一ノ宮上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し二柱の命を左右の殿に遷祀した。古くはこの三柱を合わせて子檀嶺神社獄石宮大神として祀っていた。貞観2年(860)2月神位従五位下を授けられ、延長2年(924)御勅改、延長5年(927)延喜式に選ばれ名神小社に列した。寛冶元年(1807)源義光公本殿再建され元暦元年(1184)当郷の豪族武石三郎平胤盛本殿吠殿を修理された。 天正4年(1576)依田川の大洪水により社地・社殿が流失し、当時の地頭大井大和守信廣現在地へ遷座し祭典料として28貫文の地を寄付された。慶長12年(1607)9月28日領主真田候社領として18石余寄付され、以降領主が変わる毎に社領は寄付された。延享3年(1746)烈風のため大破損を被り、翌4年領主松平伊賀守忠愛候巨木を寄進された。

長野県神社庁



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