塩野神社
しおのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】塩野神社 信濃国 小県郡鎮座

   【現社名】塩野神社
   【住所】長野県上田市保野 429
       北緯36度22分13秒,東経138度11分15秒
   【祭神】塩垂津彦命 (配祀)素戔嗚命 健御名方命
   【例祭】4月第3日曜日 春祭り
   【社格】
   【由緒】白鳳元年(672)に出雲より分祀という
       宝亀年中(770−80)奉齋とも伝える
       文禄2年(1593)造営
       明治26年11月30日塩野神社と改称許可

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「大明神」と称していた
   【社殿】本殿一間社流造柿葺
       拝殿・神樂殿・直会殿

   【境内社】

宝暦7(1757)から明和3年(1766)まで10年間に亘り、前山の塩田神社と共に延喜式内社を主張して社号の大論争が続き、途に幕府の寺社奉行の裁きを受けることになり、その結果共に証拠不十分の理由で、両社とも社を停止されることとなった。


塩野神社

市指定有形文化財(建造物)
上田市文化財保護条例第5条の規定により左記のとおり指定する

一、種別 有形文化財(建造物)
一、名称 塩野神社廻り舞台
一、所在地 上田市大字保野字塩野429
一、指定年月日 昭和58年8月8日
上田市に現存する唯一の廻り舞台で、明治7年の建築である。
左右の袖下屋を含め、間口14.5m、奥行9.0m、中央部が径6.9mの鍋蓋となっている。前面左右の隅に下座(太鼓、三味線などの楽器、技太夫語りの席)の段があったが、今は柱の配置と大窓から旧状を想像するだけである。
バックの大窓(遠見)の景は特にすぐれている。石垣積みの段差を利用し、二階が舞台面、一階は正面からは地階となり、中央部に鍋蓋を廻す太い八角の廻転軸が立っているだけで、楽屋を兼ねたが、両後隅の舞台への階段は失われている。
昭和59年2月
上田市教育委員会

社頭掲示板



保野塩野神社

祭神の鹽垂津命は白鳳元年、出雲より分祀とも、宝亀年中の奉斎とも伝えられる。白鳳当時、百済の帰化人が東国へ送られ、平安時代初期、小県郡の帰化人に姓を賜るという史実から、帰化人によって米作が発達し、信濃の中心と発達する基になったと考えられる。
鹽野神社は式内社小縣郡五座の内三座の小社の一に挙げられているが、前山と保野に同名の社があり、現在は共に延喜式内鹽野神社を名乗っている。宝暦7年(1757)から明和3年(1766)まで10年間に亘り、共に延喜式内社を主張して社号の大論争が続き、遂に幕府の寺社奉行の裁きを受けることになり、その 結果共に証拠不十分の理由で、南社とも社号を停止されることになり、保野神主保屋野日向と前山神主宮澤大膳が和談し、済ロ証文を奉行宛差出している。その結論に保野は北鹽野神社、前山は南鹽野神社と祝称して睦まじくやって行くということを誓っている。その後、未だにどちらが真の鹽野神社かは郷土史研究家も解明できないでいる。
 明治以来当地方の郷土史の二大家と言はれる上野尚志、藤澤直枝はともに保野は福田郷(和名類聚抄)に属し、上田盆地における稲作創始の二大地帯の一であり、そこに現存する口明塚古境とともに福田郷の古社であることを主張された。上野尚志著『信濃國小縣郡年表』は今も上小郷土研究会によって復刻されて、郷土史愛好家に使用されているが、氏は保野が式内社であることを断言している。しかし今もなおかっての寺社奉行の裁定に従ふべ きであろうと考へる。
 鹽野神社は宝暦7年(1757)前山と保野の神主が社号論争をはじめるまでは、前山は大宮、保野は大明神(棟札による)と称していたことは明らかであるが、長い間双方とも鹽野神社とは氏子も言わなかったことがわかる。従って由緒なども主として論争時の言い分として言いはじめたものが多いとも思はれ、伝承は余り信用できないものとなってしまった観がある。それよりも明治以来の郷土史家の研究の方が地方民からも信頼を受けている。特に有名な上野尚志はその著『信濃國小縣郡年表』に「前山村の方は証書一○数通あれども皆後世の偽作にして一も取るに足るものなし」と言いきっているし、『上田市史』を執筆した藤澤直枝も「現在の姿でその神社の新古正否をきめることは危険である。鹽野神社の場合保野は福田郷であり、前山は安曾郷であり、福田郷には保野の鹽野神社以外に然るべき神社のないことに注目する方が大事だ」と説いている。

保野祇園祭保存会



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