塩野川の水源である独鈷山(1266m)の鷲ケ峰に祭ったのが始まりといわれる。 奥宮が独古山にあり。独古山信仰より生まれた神社である。 宝暦7(1757)から明和3年(1766)まで10年間に亘り、保野の塩田神社と共に延喜式内社を主張して社号の大論争が続き、途に幕府の寺社奉行の裁きを受けることになり、その結果共に証拠不十分の理由で、両社とも社を停止されることとなった。 |
塩野神社 上田市指定文化財 一、名称 塩野神社拝殿及び本殿 二、種別 有形文化財・建造物 三、所在地 上田市大字前山字塩野1681 四、所有者 上田市東前山及び西前山自治会 社伝によれば、塩野神社は塩野川の水源である独鈷山の鷲ケ峰に祭ったのが始まりといわれる。歴史的には、古代の公文書である「三代実録」「延喜式」に記されている。戦国時代には武田信玄や真田昌幸・信之らが信仰を寄せ、それらの古文書や、六十年に一度の「甲子祭」で舞われる「前山三頭獅子」等、多くの文化財を伝えている。 拝殿は勅使殿ともいわれ、棟札により建築は江戸中期の寛保3年(1743)作者は上田市房山の名工、末野忠兵衛とわかる。楼門形式の拝殿は、現在のところ県内では諏訪大社と本件が確認されるのみで、建築史上貴重な物件である。 本殿は一間社流造で、建築は寛延3年(1750)作者は本殿と同じく末野忠兵衛である。各所に雲や天女・虎・牡丹・竜等の彫刻が施され、この時代の地方作としては彫刻が多く用いられた初期の作品であり、当時の様式を良く伝えている。 社頭掲示板 |
前山塩野神社拝殿及び本殿 独鈷山〔とっこざん〕の北の山麓に位置し、その古さを物語る大きく深い森につつまれた神社が前山の塩野神社です。 神社の前には太鼓橋がかかっていますが、その下には独鈷山の清らかな湧き水が滝となって流れ、それがやがて本流の産川と合流して塩田平を潤〔うるお〕しています。 塩野神社はかつては独鈷山の山頂辺くの鷲岩という巨岩に祀〔まつ〕ってありました。後に人里近いこの場所に遙拝所〔ようはいじょ〕としての御門屋〔みかどや〕が建てられ、その後本殿もこの地に移されたといわれています。 塩野神社は水の神様であるといわれています。 なお、この社殿の南側に大きな岩が立ち並び、その上に石の祠〔ほこら〕があります。これを「盤座〔いわくら〕」といいます。盤座というのは、神がお下〔くだ〕りになる岩場のことで、神様の御座所です。その原形は有名な大和(奈良県)の三輪山〔みわやま〕などに求められますが、このことは塩野神社の信仰の起原を知る上に大変貴重です。 今から1100年前の貞観15年(873)4月5日「信濃国塩野の神」に正六位上という位〔くらい〕がおくられた記事が『日本三代実録』という書物にのせられています。それから50年程後に出来た『延喜式」という書物に「式内社」としてのっています。 社殿は江戸時代の建築物です。拝殿は寛保3年(1743)、本殿は寛延3年(1750)のものと考えられています。 拝殿は写真のように、間口、奥行共に同じ長さで、楼門造りといって二階建てになっています。屋根は切妻〔きりづま〕で銅板葺です。軒の組物などに朱色の色付けがされています。なお二階建ての拝殿は県内では珍らしく、建築の形式上貴重な建物です。また拝殿の正面に「勅使殿〔ちょくしでん〕」の額が掲げてあります。これは本来の御門屋〔みかどや〕のことを御帝屋〔みかどや〕と呼びますので、後に勅使殿と書いたものでしょう。 本殿は「一間社流〔いっけんしゃなが〕れ造〔づく〕り」といいます。間口、奥行の長さはほぼ同じで向拝〔ごはい〕といって本殿の正面の階段の上に張り出した庇〔ひさし〕がついています。屋根は銅板葺です。軒の垂木〔たるき〕だけが朱色に着色されています。 本殿は特に彫刻の美しさが目を引きます。小脇の壁にある、上り竜、下り竜の透〔すか〕し彫り、向拝住や虹梁〔こうりょう〕に刻まれた象、また建物の正面、側面の梁や虹梁にある雲形などすべて彩色がほどこされた彫刻です。 大工棟梁は末野忠兵衛とありますが、この一族は上田房山に住み、代々工人として主に社寺建築に精通し、当地方に残した多くの業績は高く評価されています。なおこの両社殿は、18世紀中頃の様式をよく備えた建物として、当地方に残る代表的建築物です(*)。 またこの神社には建物の歴史と言える棟札が、文明年間より今日まで30枚そろっていることや「甲子〔きのえね〕大祭」といって60年毎の神事が継続され、盛大に行われているのもめずらしいことです。 上田市文化財マップ |
塩野神社 式内 塩野神社 祭神 須佐之男命 大己貴命 少彦名命 約千年前、朝廷で編纂された「延喜式」に載せられている信濃の名社。上田、小県地方における式内社5座の一つで、奥社は塩野川の水源独鈷山にある。 大宮または大明神とも称され、古来この地方の信仰の中心で、塩田北條氏、武田氏、真田氏等の統治者は常にこの神を厚く崇敬した。 中でも永禄11年(1568)の武田信玄の祈願状や天正15年(1586)の真田昌幸(幸村の父)の寄進状など有名なもので、何れも上田市の文化財に指定されている。 かつては神宮寺も付属している大社であり、武田信玄は20貫文の朱印地を奉納していたといわれる。戦前は県社であった。 境内の森厳さは定評があり、また太鼓橋の構築、拝殿(勅使殿といっている)の楼閣造り、本殿の彫刻等見るべきものが多い。 社頭掲示板 |