本殿は、周囲を池で囲まれた小島の上に立ち、古代の神社の形態を現在に残している。 本殿内に御諸と呼ばれる床板の無い大社造りの内殿が有り、「土・土地」そのものがご神体とされている。 |
由緒 日本中央生島足島神社 日本の真中国土の大神 御祭神生島大神足島大神 御神徳この二柱の神は日本の中央に鎮座して、万物を生み育て、国中を満ち足らしめ給う日本国土の守護神である。生島大神は人々に力強い生命を与え、病気平愈、災難除け、安産に、足島大神は人々の願いに満足を与え、五穀豊穣、商売繁盛、受験、縁結び等に霊験あらたかと昔より伝えられている。 御由緒太古より日本総鎮守と仰がれる無双の古社で、神代の昔建御名方命が諏訪の地に下降される途すがら、この地にお留りになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている。 御社殿御本殿には床板がなく、その土間の大地が御霊代とされている。神域は老樹が茂り、社殿をめぐる大池に朱塗の神橋がうつる景趣はよく崇高の美を現している。この神域の様式は池心宮園地(いけこころのみやえんち)と称され、出雲式園地の面影をそのまま保存するものである。現在の社殿は昭和16年国費をもって竣工した。 崇敬のあらわれ歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年には神封戸の寄進があり、醍醐天皇の延喜の代には名神大社に列せられた。建治年間には北条国時が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進、戦国時代以後、武田信玄、真田昌幸・信幸等の武将をはじめ、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を再建する等崇敬を表している。ことに天皇が新たに都を定められる時には必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治天皇が都を東京と定められた明治2年宮中にこの二柱の大神を親祭され同22年勅使差遣になり国幣中社に列せられた。 古文書永禄の頃、武田信玄の奉られた願状をはじめ、その家臣の起請文等94通は今なお宝物として保存されており重要文化財に指定されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
生島足島神社 創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事に伝えられています。 生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より日本総鎮守と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。 当社は歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年(806年)には神封戸の寄進があり、醍醐天皇の廷喜の代(901年〜922年)には名神大社に列せられています。 建治年間(1275年〜1278年)には北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進しています。 戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を再建する等、崇敬を表しています。 必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治二年、宮中にこの二柱の大神を親祭され、同三十二年勅使差遣になり国幣中社に列せられています。 御本殿は池に囲まれた島の中ににまわりを老樹に囲まれて建っています。御扉の奥には御室と呼ばれる内殿があり、内殿には床板がなく大地そのものが御神体(御霊代)として祀られています。この池を巡らせて神域とされる島をつくる様子は「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、出雲式園地の面影を残す、日本でも最古の形式の一つとされるものです。現在の社殿は昭和15年に国費をもって竣工したものです。内殿は平成10年9月「県宝」に指定されました。 祭 祀 数多くの神事がありますが、特に大きな祭祀としては二年詣りに始まり、1月15日に行われる五穀養蚕の豊饒を占う御筒粥の占い神事、4月18・19の春祭り7月最終日曜日に行われる祇園祭、9月19日の例大祭、11月23日には新穀感謝祭(新嘗祭)が行われます。また、特に当社においての重要な神事に「御柱祭」と「御籠祭」があります。 御柱祭には七年目ごとの寅の年・申年の四月中旬に行われます。 御籠祭は、太古から行われてきた祭事で、毎年11月3日の夜、摂社の諏訪神が生島足島神社の本殿へ移り、毎夜御粥を炊いて生島足島神に献供される儀式で、本来、翌年の4月13日まで続く神事でありましたが、現在は、七日ごとの24回と12月31日・1月14日の計26回行われています。 公式HP |
生島足島神社 御祭神 生島大神 足島大神 御由緒 大古より大八州の御霊として祀られ日本総鎮守と仰がれこの古社で昔建御名方命が諏訪の地に下降される途すがら、この地に御留りになり、二柱の大神に奉仕、米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御籠祭と云う神事に伝えられている。 御本殿には床板が無く、土間の大地が御霊代とされている。 御神徳 生島大神は、万物を生み育て力強い生命を与え、足島大神は、国中を満ち足らしめ人々の願いに満足を与えて下さると昔より伝えられている。 御例祭 9月19日 寅年・申年には式年御柱大祭が斎行される。 摂社 諏訪社、八幡社、子安社、十三社、荒魂社、秋葉社、山宮社、御旅所社 社頭掲示板 |
生島足島神社 生島大神・足島大神の二柱の神は、日本の真ん中に鎮座して、万物を生み育て、国中を満ち田らしめ給う日本国土の守護神として崇められてきました。生島大神は万物を無限に育成発展させ給い、足島大神は万物を充実満足させ給う神々であります。 太古より大八州の御霊と仰がれる極めて古い由緒を持ち、神代の昔、建御名富命が諏訪の地へ御下降の途次この地にお留まりになり、先住の地の神(御神体は大地)に奉仕し、米粥を煮て献ぜられたと伝えられています。その故事は、地の神から生島足島二柱の神に引き継がれ、現在、生島足島神社では御籠祭という神事として連綿と続いております。また、7年目毎に行われる御柱大祭は、諏訪神が生島足島神社の御社殿を建替奉納するものと伝えられています。御本殿は、池に囲まれた島の中に建ち、御扉の奥には御室ともよばれる内殿があり、内殿には床板が無く土間の大地になっており、その大地が御神体(御霊代)とされています。この池を巡らせて神域とされる島をつくる様式は「池心宮園池」と称され、出雲式園池の面影を残す、日本でも最古の形式の一つです。現在の御本殿(内殿を覆う)・幣殿・祝詞殿は、戦時中の昭和16年国費をもって竣工されました。 長野県神社庁 |
文化財 重要文化財(国指定) 生島足島神社文書 94通(古文書) 文書のうち、生島足島神社起請文は武田家臣団が信玄への忠誠を誓約した起請文である。起請文において一般的な熊野牛王宝印が使用され、甲斐本国に加え武田領国化された信濃や西上野など武田家臣団の一部にあたる237名が誓約し、うち83通が現存している。日付は永禄9年(1566年)8月23日付のものが3通、翌永禄10年(1567年)8月7日付のものが72通、同年8月8日付のものが8通。 起請文作成の背景として、永禄10年(1567年)に信玄嫡男の義信が甲府で幽閉され自害した義信事件に際し、家臣団の動揺を鎮める意図があったと指摘される。(昭和34年(1959年)に奥野高広が指摘して以来)この見解が支持されているが、一方で信玄期に北信地域で繰り広げられていた川中島の戦いに代表される、越後の上杉謙信との対決に際した戦勝祈念の意図も指摘されている(西川広平による)。昭和62年6月6日指定。 長野県指定文化財 長野県宝(有形文化財) 本殿内殿(建造物) - 平成10年10月26日指定。 歌舞伎舞台(建造物) - 昭和61年8月25日指定。 摂社諏訪社本殿及び門(建造物) - 平成14年3月28日指定。 上田市指定文化財 有形文化財 鉄製湯釜(金工品) - 昭和55年4月8日指定。 木造狛犬 1対(彫刻) - 昭和55年4月8日指定。 無形民俗文化財 下之郷三頭獅子 - 平成11年2月9日指定 |