笠原神社
かさはらじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】笠原神社 信濃国 高井郡鎮座
          (旧地)笠原神社【旧地】

   【現社名】笠原神社
   【住所】長野県中野市笠原 408
       北緯36度46分44秒,東経138度21分34秒
   【祭神】少彦名神
   【例祭】9月29日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】文政5年吉田家へ願い社号額字申受く
       寛文11年(1671)夜間瀬川の大洪水により流失
       文化12年(1815)現在地に再建
       明治6年4月郷社
       明治40年4月神饌幣帛料供進神社に指定さる

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは上笠原村天神前にあった。
        文化12年(1815)現在地に再建

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天神」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       祝詞殿・拝殿・祭器舎

   【境内社】

笠原牧の牧官、笠原氏が京都五条天神から国作りの神少彦名命を勧請して字天神前に創建した。天つ神を祀るところから笠原の天神さんといわれ崇敬されてきた 。
もとは現社地の北東300mほどの上笠原村天神前にあった。


笠原神社

延喜式内
笠原神社 由緒
祭神 少彦名神
延喜式神名帳所載の神社にして本村の産土神たち旧時は字天神前に鎮座の処中古流失につき当地に移転す
又別当天台宗本誓寺あり水災後越後国頸城郡高田へ移転の趣口碑に伝うと云う
文政5年吉田家へ願い社号額字申受く
明治6年4月県第四十六区の郷社に列せらる
明治40年4月神饌幣帛料供進神社に指定さる
笠原神社の歴史
年不詳 笠原牧の牧官、笠原氏が京都五条天神から国作りの神少彦名命を勧請して字天神前に創建した。天つ神を祀るところから笠原の天神さんといわれ崇敬されてきた
927 延長5年 延喜式に笠原神社、笠原牧記載される。以後盛大な官祭が行われたといい今も火打田、的場等の字地が残る
1180 治承4年 笠原の住人笠原平五頼直、源平の戦いで平家方の領袖として宇治川、市原で戦い翌年横田河原戦で敗れ出羽国へ落る
同族の笠原行連は後源頼朝の御家人となり所領安堵される
1405 応永12年下総国本誓寺七世性順、笠原氏を頼り笠原字散法院に移住し寺号を笠原本誓寺と称す。後に笠原神社神宮寺となる
1449 宝徳元年八世性善の代、本願寺蓮如上人逗留し直筆の本誓寺の額をあたえる
1550 天文19年甲、越の戦火をさけ本誓寺十世超賢笠原神社を笠原村に託し寺宝を携え加賀小山御坊へ移る
1552 天文21年超賢、上杉謙信の懇請を受け加賀、越前の一向一揆を諭し上洛の通路を開らかしめ翌年謙信によって越後高田に笠原本誓寺再建される。蓮如上人直筆の本誓寺の額、今も寺宝として現存する
1671寛文11年度重なる夜間瀬川の大洪水により笠原神社、村落耕地流失する。神社流失後は祭祀を若宮八幡宮神官に託す
1750 寛延3年若宮八幡宮、京都吉田家に出願し八幡宮に笠原神社の額を掲げる。笠原村これを江戸寺社奉行所に出訴する
1752 宝暦2年江戸寺社奉行三井下總守の決裁で笠原村の勝訴となる
1815 文化12年流失後144年、笠原神社本殿現在地に再建される
6年後の文政4年、拝殿も再建される
1822 文政5年当郡神社神官連署の證書をもって京都吉田家に式内社の出願をする。翌文政六年吉田家より祝詞、神宣状、及び式内社の額下付される
1848 嘉永元年6年前の天保13年本殿の雨覆い再建され、この年祝詞殿再建される
1873 明治6年本県第四十六区、近郷九ケ村の郷社に列される

社頭掲示板



信濃国INDEXへ        TOPページへ


学校情報