往古大和部族移住に際し同国宇陀郡榛原より墨坂神を遷祀したという。現在の須坂市の東方日瀧地区の本郷にその古八幡という地名があり、少しの原野が現存している。そこが、当社の原位置とされる。 |
由緒 鎮座地 長野県須坂市大字小山八幡 当社は其の草創年月不詳と雖、住古大和部族移住に際し同国宇陀郡榛原より墨坂神を遷祀したるものなり。 一に白鳳2年ともいう。貞観2年10月15日男山八幡より八幡神を勤請し爾来墨坂神社八幡宮と称し奉る。朝廷の御崇敬も行われ畏くも光仁天皇天応元年10月14日神封一戸を賜りたり。延喜式高井郡初筆記載として後一郡一ノ宮と定められる社家山岸氏勅使巡国の際郡内御供仕奉ると云う。 鎌倉時代に入り武将の崇敬殊に篤く、越後少将及右近太夫は各々高三石宛を寄進し、信玄公祈願状を寄せ武運長久を祈る。土豪八幡長者、領主須田氏等産宮として崇敬し多数の神器を奉納せらる。堀公藩主となるに及び産神とし殊に藩祈願所と定められたり。累代の崇敬敦く、年々祭事料として籾一石二斗五升、人足四人宛を遣わさる。2代直升公高三石を寄進せしを始め一万石の小藩にして寄進高八石餘に及ぶ。猶多数の神器々物等社納せられたり、明治に至るまで十日間の大祭中日市、馬市、大角力芝居、競馬等行われ番所を設け藩より重職出張して警護の任に当り、三道具、紋入御幕、高張等奉納あり、藩公定式の社参あり幣帛を奉る例たり。出府の節等必ず社参し道中安全武運長久を祈願せらりたり。往古多数の門前(今の市川添)ありたるも荒廃するに及び堀公、寛永9年更に二十五戸の門前新田(今八十余戸八幡町)を開発し神役に使用せしむ。 外に社家を始め下社家、神人神子数戸あり寛永の頃既に広大な神楽殿を有す。神社奉加等領内御免の外北四郡より上州吾妻郡に及ぶ。藩公社領を拡め祭祀を厳厚す、庶民の崇敬愈々加わり祭事の殷盛なること往事比なきに至れり。境内一町五反余稀にみる撞木形境内なり。千余年の欅樹を交え神域欝蒼たり。昭和3年県社に列せられ愈々近郷の大社として崇敬をあつめ神徳宣揚せらる。知名士の参拝歳々亦多し。境内社若宮八幡社は高梨氏の守護神として崇敬並びたる社なり。数十点の古文書等銘記すべき由緒の尊きを語り他事を要れず恐れむ所以なり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
墨坂神社 鎮座地 須坂市小山1592番地 御祭神 墨坂大神 帯中津日子尊(仲哀天皇) 息長足姫尊(神功皇后) 品陀和気尊(応神天皇) 由緒 当社は、古代大和の部族が移住する際、同国宇陀郡榛原より墨坂神を遷祀したものである。一説には天武2年(873)であるという。後、貞観2牢(860)京都の石清水八幡宮より八幡神を勧請して以来、墨坂神社八幡宮と称するようになった。昔から朝廷の崇敬があり天応元年(781)には封戸が与えられている。また、延長5年(927)の延喜式神名帳には高井郡六社の筆頭に記録され、郡内一の宮と定められた。 中世には、武将の崇敬が篤く土豪八幡長者、国人領主須田氏は産土神として崇敬し、武田信玄は武運長久の祈願状を寄せている。近世の須坂藩主塚氏は、当社を藩祈願所と定め高八石を寄進し、正月・例祭・出府・帰藩の折には必ず社参することにしていた。なお、例祭十日間には、日市・馬市等が行われ北信一帯の大祭としての賑わいをみせていた。 当社は昭和3年県社に列せられた。また、1.5ヘクタール余の■形境内は、ケヤキ等の大木、古木が鬱蒼とした社叢をなしていて、昭和61年須坂市有形文化財(天然記念物)に指定されている。 祭日 1月1日 歳旦祭 4月19日 祈年祭 9月14日 22日 例祭 12月17日 新嘗祭 境内社 若宮八幡社、高良社、養蚕社、弁天社、山ノ神、祖霊社、末社 社頭掲示板 |