この地は往古湖水であり、水内の海と称した。この湖北の山林に鎮座したと伝えられる。古来大宮諏訪神社の称あり、大宝3年官幣に預り、貞観9年正二位に叙せられたという。飯山城主代々の崇敬社であった。明治13年県社に列す。 本殿後方の山上には鎮座石とよばれる巨石がある。 |
健御名方富命彦神別神社 弘化4年(1847)3月24日當國大地震に際し、近隣更級郡更府村岩倉山崩れて本村字花倉に衝突し犀川を塞ぐ、巾一八○間・高さ二〇丈、以て激流を堰き止むること二〇日、この爲沿岸の村落水中に没し上流に向ひ瀦水すること一〇余里に及ぶ。殊に當社は塞遮の場所を隔る一〇丁余にして数丈の水底となり、其の惨状言語に絶へたと傳へてゐる。そして、4月13日瀦水一時に決裂するや数萬の家屋奔流し、當社の大樹に衝突して瞬時に三大樹を残して他は根を払つて流失した。僅に本殿は三大樹に護られ元の礎にあつたが、社域流亡の爲古観を失ふに至つた。 式内社調査報告 |
健御名方富命彦神別神社 健御名方富命彦神別神社末社 重要文化財若宮八幡神社本殿 昭和27年7月19日重要文化財指定 重要文化財若宮八幡神社本殿は重要美術品認定の健御名方富命彦神別神社(大宮)の境内社である。 若宮八幡宮は、大宮と共に盛衰をたどったものであるが、大宮の社伝によれば、大古この地が湖であった頃諏訪明神を勧請し、地名によって伊豆訶邑神として祀ったのに始まるという。しかし創立の年次については明らかでない。 若宮八幡神社の社殿はもと大宮の本殿を現地に遷し建てたものと伝えられている。その建築の様式・手法等はよく室町時代の特徴を示している。その頃、この地を支配し大宮を奉斎してその復興をはかった尾崎氏(泉氏)が同氏の祖神にゆかりのある若宮八幡神社を大宮の境内社として建立したものであろう。 本殿は桁行(正面)186cm、梁行(側面)147cm、拝の出122cm、合わせて奥行261cmの清楚な素木造りの一間社流造りの純和風建築で、現在は覆屋の中に安置されている。 向拝の柱や舟肘木の面取りの程度舟肘木の優美な曲線、幣軸の断面にみられる形式、その他紅梁・垂木・破風・懸魚・桁隠等の形式はよく室町時代の特徴を示しており、破風板や懸魚・桁隠は当初のままに残されている。 昭和49年9月、国庫補助事業として本殿の解体修理並びに覆屋の改修工事が完了した。 昭和54年9月8日 飯山市教育委員会 社頭掲示板 |
健御名方富命彦神別神社 宮司宅に残る江戸期の文書には、「白雉3年(652)創建」をうたっているが、真偽の程は不明であり、創建不詳である。その道の専門家によると本殿上の大石を地元では昔から「影向石(ようごうせき)」とか「鎮座石(ちんざいし)」と言い伝え、今も石上に御幣が立つが、これを磐座(いわくら)と考え、相当古くから信仰の場であったようである。そこへ鎌倉から室町へ懸けて小領主(地頭)からの保護を受け、江戸期にも飯山藩主の祈願所として神社が整備され、寛政元年(1789)に京都吉田家より式内名神大社の現社号允許、明治13年に郷社から県社に昇格した。 常磐牧跡の水田開拓に係わってきた神社と考えられている。 長野県神社庁 |