持統紀にある水内神であるとする。祭神 級長津彦命は風神である、社名もこれからおこるか。 |
風間神社 延喜式内社 風間神社 由緒 醍醐天皇(927年)の御世、延喜式という書物が有り、その中の神名帳は全国に存在した神社名が書かれていて、この神社が延喜式内社・或いは式内社と称されています。登録神社は3132座で、信濃には48座、水内郡には 風間神社外8座です。『風間神社』は、日本の正史と言われる「六国史」に、推古天皇5月8日(596年)には『竜田風神信濃須波・水内神を祀らしむ』とみえています。そして清和天皇貞観2年2月(860年)『飄別神に叙位』の事が書かれています。 この『水内神』『飄別神』はいずれも風間神社で有ると言われています。 祭 日 元旦祭(元始祭) 勅使祭 奉告祭 春祭(祈年祭・五社祭) 夏祭(祇園祭) 風鎮祭 例大祭 秋祭(新嘗祭・伊勢宮祭) 越年祭(大祓) 社頭掲示板 |
風間神社 裾花川は昔、暴れ川と呼ばれるほど氾濫が多く、人々を悩ませていました。村人たちは、裾花川の流れを治め、豊かな恵みを願い、田畑を開墾し「五穀豊穣」を祈念し、お社を祀られたと言われています。平安時代の「延喜式神名帳」には、水内郡の一座として記載されています。 鎌倉幕府の執権北条氏のとき、諏訪社大祝職である諏訪盛重は北条泰時、経時、時頼の三代の執権に仕えます。以後、北条氏との絆は一段と強くなり、全国に諏訪神社を拡大していきます。 風間郷には、矢崎家直の子息が風間忠直を名乗り「風間神社」から「諏訪大明神」に改めます。 江戸時代になると「諸社禰宜神主法度」により宮崎若狭守が京都の吉田家から神道裁許状を受け「風間大明神」の社号を許されました。境内には伊勢の関係が強い「天牟羅雲社」「猿田彦社」「伊勢宮」が祀られています。伊勢国の宮崎氏が「諏訪大明神」から「風間大明神」へ改号します。 文政5年京都吉田家の宗源宣旨といわれる宣旨で神階を発行し「風間大明神」から「風間神社」に改称します。混乱の明治期には、神仏分離令や社寺領上知令が発せられ、更に太平洋戦争の苦難を乗り越えて、現在の地にお祀りされております。 長野県神社庁 |