祭神は鎌倉鶴岡八幡宮の分神という。旧は守田沖に鎮座のところ焼失し長禄3年(1459)現地へ遷。宝暦6年(1756)守田神社の称号を得るも、文政年間長沼穂保の守田神社ならびに古間の守田神社の二社より苦情があって「廼」の字を加える。市街地の中の平地。 本殿は旧善光寺年神堂の建物。年神堂が神仏分離に伴い健御名方富命彦神別神社(水内大社)として善光寺境内から城山に移転するのに伴い、建物のみ当社へ移築した。 |
守田廼神社 守田廼神社(延喜式内社) 信野の国の式内神社は四十八座であり、今から1705年前(905年)延喜五年に第60代醍醐天皇の命令によってつくられた式をあつめたもの五十巻あり、平安時代の政治のしくみを知る資料である。 式とば、大宝律令によって政治をするためつくられたこまかい規則であり、式内社とはその時の式帳即ち神名帳に収められ、登緑記載されている神社であります。 御祭神は誉田別命即ち第十五代応神天皇であります。 本社の創立年月日は不詳、旧北高田村の産土神で口碑に拠るに往古より守田八幡宮と称し、守田沖に鎮座のところ焼失し長禄3年(1459)に現今の地に遷し再築する。古は裾花川と淺川の二川横流氾濫し、広漠たる荒野なりしが、ここに地勢高く水利に便なる所有り、時に神告あり、由りて時の人々開墾して美田を得たり、その故を以って村名トスル。高田は即ち土地高く美田より起りしという。 宝歴6年(1756)12月神祇管領吉田家より旧称の守田神社の称号を以て幣帛奉進相成りました。 本社の御祭神は相州鎌倉鶴賀岡八幡官の分神にして源頼朝御台所政子御前の家臣本田治郎と僧専光坊良運の合作にして建久8年(1197)後鳥羽天皇の御代に源頼朝政子御前と共に3月28日録倉を発足し、4月6日に信州長野に御着、御向御所(今の向御所)に八幡大神を安置し焼失せし善先寺御堂を再築せられしと、これ善光寺如来の守護神とせし息召しなりと云々。鶴賀とか八幅堰(八幅川)の名もこの鶴賀岡八幅大神に依リて起こりしという。 其の後正安3年(1301)長野庄司・長沼五郎、島津元始等の人々八幡堰を掘直しのため、八幡大神を善光寺御堂の裏即ち年神堂に遷せしものなりという。其の後貞享3年(1686)に大勧進並びに法輪院本覚院に八幡大神の御告ありて曰く「是より東高田の郷に社あり、我が有縁の地なれば此処に遷せ」と、当時守田八幡宮の神主にも同様の御告ありしを以て不思議とばかりに問合せしに果たして同御告なれば双方熟談の上宮の修理をなし元緑12年(1699)三月双方御送迎の上賑々しく高田の宮に御遷座せしものなり、故に神体勧請社とありて他に比類なき霊神なりと口碑に伝う、「神体勧請社八幡宮」の額あり。 社地境内は八幡堰を以て車南を囲み槻の巨木数樹ありて松、杉、是におおい、うつ蒼天を覆い、一見古社たるの観ありしが社頭焼失以前の盛時の名残は地名に存せり。 本社御本殿内の御神殿は年神堂の御本殿にして桃山時代建造物であり明治12年にこの守田八幡宮に遷せしものなり。 昭和55年4月 宮司記 社頭掲示板 |
守田廼神社 建造物守田廼神社本殿 長野市指定文化財 昭和42年11月1日指定 大樹が茂る広々としたこの境内の中央に三つの屋根か南北にならんでいる。すなわち、南から北へ、拝礼のための拝殿、神前で祝詞(ノリト)を唱える祝飼殿、神霊を奉る奥殿が建っている。とくに最後尾の奥殿は、人の背丈程ある反りを持つ立派た石積の上にある。この建物の中に安置されている流れ造りが長野市指定の有形文化財守田廼神社本殿である。 流れ造りは仏教の影響を受けて平安時代初期に成立した様式と考えられている。 この社殿の場合、正面が三間、側面が一間屋根が木羽板葺で正面中央に五段の階段がある。特に部材に施された彫刻が簡素で、その上に塗られた彩色も控えめな点に特長がある。 一般に江戸時代の神社と仏閣は、徐々に過剰な装飾を全面に持つようになる。しかし、過飾に至っていないこの姿は江戸時代の最初期を表すと考えるのが的確であろう。 明治時代の初めに、この社殿は神仏分離を経て、善光寺の北からこの地に移されてきた。側面にみえる部材の一部を切り縮めた痕跡は、移築の際のものという。 平成14年2月29日 長野市教育委員会 守田廼神社 社頭掲示板 |