祭神守達神は建御名方神の子神で当地開拓の神。天平巳年(729)にはすでに社殿あり。弘安5年(1278)社地崩壊により現地へ遷。 |
縣社昇格記念の碑 縣社昇格記念の碑 篆額從四位伯爵眞田幸治謹書 縣社守田神社の所在地字を古間と云ふ、即古沼の転なるは明也。而して池沼は多く墾田に関係す。式内守田神社の鎭座せらるゝも宜ならずや。抑々當社地は石器時代の遺跡なり。総じて斯の地方は山抜、地辷多く上古の居住地あるべしと雖も概ね埋没に帰し痕跡殆んど稀なるに此の地に於て之を見るは社地一帯地盤の堅固なるを証するものにして、一方守田神社の鎭座意義に相呼応するものと謂ふべし。之より前、貞観年中数次の叙位ありたるは國史に明なり。其の後の傳來不明なるも室町期頃より祠官矢島氏の奉仕に鑑みて諏訪神系の有力社の一なりし事は明白なり。維新後早くも郷社に列し昭和九年縣社に昇格せらる。郷民信仰の熾烈古來祭式の奇古段賑なるも併せて土尻渓谷の一大史標たるの観あり。今昇格記念として神社関係者に於て建碑の企あり聊か所感を記すこと如斯 昭和15年11月11日 長野縣史編纂委員 栗岩英治拝識 元公立高等女學校教諭 松本□ 謹書 社頭石碑 |
守田神社 本社祭神守達神は建御名方命の御子神にして当水内県の開拓の祖神として奉斎せ 、既に天平巳年荘厳なる社殿を造営して神徳四囲に遍照す。貞観元年12月14日従五位下を授けられ其の后度々の奉授を得て従四位下に至る。弘安元年社地崩壊のため現地に遷座。中葉以来国守武将の崇敬浅からず延徳3年春日大■大夫惟人所領三十一ヶ村の総鎮守と定め社殿再建。春日常陸守貞徳下祖山は神田を定め上杉景勝名刀を敬進、大久保石見守社領寄進。松代城主祈願社として社領、禁制、社参、伐木等崇敬の誠を捧げられ、文化9年正十■に神階を進められ明治6年郷社に昭和9年県社に列す。今茲に延喜式撰上1050年を記念して建碑の企あり。其の由緒を記して千古に伝ふ。 昭和53年極月吉日 諏訪大社宮司 三輪磐根謹書 社頭石碑 |
守田神社 七二会守田神社の神木 (スギ2本) 長野市指定天然記念物 昭和60年2月9日指定 所在地 長野市七二会字守田乙2769−1番地 所有者 守田神社 この神木は、鳥居より北20mの参道両脇に、8.5m間隔をおいて、並び立つスギでその大きさは東側のもの目通りの幹囲り4.6m西側ものも4.64mで、高さはいずれも約40mにおよんでいる。 西側のスギに 昭和32年に落雷があって、一条の傷跡があるほかは二本共樹勢は盛んである。 当市において指定されたスギの箇木の中では、昭和47年に市指定天然記念物となった、竿井向台の皇足穂命神社の大スギに次ぐ巨樹で、古来から郷域往民の信仰篤い神社の神本として手厚く保護されてきた名木である。 境内にはスギが多くその鈍度は高いが、中でもこの二本はきわだって大きなものである。 昭和62年3月 長野市教育委員会 社頭掲示板 |
守田神社 守田神社の広い境内には、社殿を囲んで300本以上の杉が茂っている。これにケヤキ・サワラ・イチョウなどの高木が混じって荘厳な社叢をつくっているが、森全体は一見して杉の純林のようである。これらの杉の中でももっとも大きいのが、神木とされる2本の杉である。この神木は鳥居から北に20mの参道石段の両わきに、8.5mの間を隔ててまっすぐに並んで立っている。目通りの幹囲は、東側の木が4.6m、西側の木が4.64mで、高さはともに約40mにおよぶ。西側の杉には昭和32年の落雷によって幹に一条の傷跡が見られるが、2本とも樹勢は盛んである。長野市で指定した杉の古木の中では、昭和47年に市指定天然記念物となった芋井の皇足穂命神社の大杉に次ぐ巨木で、古くから地域住民の信仰あつい神社の神木として手厚く保護されてきた銘木である。 長野県神社庁 |