社名に大きな変遷もなく、鎭座地も往古より変化のない神社である。 神社の西に聾える旭山の麓を廻る裾花川の清流を眺め、北方は山に続く南傾斜地で、南方は往古は水内海といわれる湖沼地帯であり、古代人の住居として最適の場所で神社敷地内より曲玉・管玉が発見され、近世まで本社の裏に御宝塚(おたからづか)という古墳があった。 諏訪系の神社で、江戸時代には武井神社・湯福神社とともに、善光寺三所鎮守として重視されていた。 健御名方富命彦神別神社の后神の社と伝える。両社をして『日本書紀』持統天皇5年(691年)8月23日条に記載のある「水内神」とみる説もある。 |
妻科神社 善光寺鎮座以前の水内神として諏訪大社の県内に最も古い分社のひとつです。御祭神は諏訪大社下社八坂刀売命を奉祀しています。創始年月は明らかではありませんが、『三代実録』貞観2年(860)2月5日の条に「正六位妻科地主神ニ従五位下ヲ授ク」と記録にあり、それ以前より当地に存在していたことがわかっています。また延喜年間(901〜923)醍醐天皇の時の『延喜式』神名帳に信濃国48社のひとつとして記載されています。 延文2年(1357)の『諏訪大明神絵詞』中「当社別宮の事」には「水内の郡 善光寺別社の事」、『日本記』第30には「持統天皇五年、遣勅使祭諏訪水内神」「是則当郡水内善光寺 内の当社なり、毎夜寅ノ刻大明神御入堂ありて、円陣の扉を開て諸入三業しつめて法施祈念す」とあります。いずれも現在の健御方富彦神別神社(通称城山県社)と一体をなす水内神であり、それに含有されるのが湯福神社、武井神社です。また、他に『日本三代実録』貞観2年(860)2月5日の頃に、「信濃国正六位上妻科地神を従五位下に叙す」ともあります。中世、当社は戸隠護法の神として 「湯福、武井、妻科、善光寺の内白山一之法也」と長禄2年(1458)『戸隠顕光寺記』に記されています。また、元禄5年(1692)『善光寺惣目録』にも、湯福、武井とならんで善光寺三社鎮守と記され、堂童子行事には三社明神に7度参詣すると定まっていました。 祭神の八坂刀賈命は、健御名方命(お諏訪さま)の御妃神で、また古くは両神の御子神である妻科姫命がまつられていました。八坂刀賈命の「ヤサカ」には、信濃に多くの峠、坂があることから、旅を安全に導く女神さまという意味がこめられています。また「弥栄(イヤサカ)」にも通じ、山国信州の守り神でもあります。彦神別命は両神の御子神として長野市城山の健御名方富彦神別神社(水内大社)におまつりされ、水内郡の開発、経営にあった神さまです。古くから「ツマシナ」と呼ばれ当社は、松代藩より社領2石の寄進があり、川北17ヵ村の総社として祟敬され現在に至っています。 全国善光寺会 |