美和神社
みわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】美和神社 信濃国 水内郡鎮座

   【現社名】美和神社
   【住所】長野県長野市三輪 8-1
       北緯36度39分46秒,東経138度12分11秒
   【祭神】大物主命 国業比売神 神部神
   【例祭】 9月27日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】貞観3年(861)2月相殿祭神国業比売神に従五位下
       貞観8年(866)2月7日水内郡の三和・神部の両神が怒つて
          兵乱や病氣をはやらせているとの報告
       安永年中(1772−81)吉田家へ願い社号改称旧称は三輪神社であったが
       明治6年4月村社
       昭和10年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三和明神・三輪明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       祝詞殿・拝殿・東西脇拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】青麻神社

『善光寺縁起』には、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣しそのまま当地に留まった、このとき大神神社の神体を奉納したので大神神社には神体がない、という伝説が記されている。
貞観8年(866年)2月の三代実録の記事に、信濃国水内郡三和神部の両神が大変怒って、兵乱や病気をはやらせる、といわれたので、朝廷は国司や講師に読経を命じて神の怒りを鎮めさせたという事で一躍有名になる。


美和神社

鎮座地
長野市大字三輪字相木東514番地
御祭神 b 大物主命(大国主命の和魂) 相殿 國業比賣神・神部神
由緒
創立年月はあまりにも上代のことで伺い知ることはできませんが、歴史のうえに現われるのは、貞観8年(866年)2月の三代実録の記事に、信濃国水内郡三和神部の両神が大変怒って、兵乱や病気をはやらせる、といわれたので、調停は国司や講師に命じて沢山のお経を読んで神様の怒りを鎮めさせた。という事で一躍有名になる。
後、延喜年間、醍醐天皇が命じて作らせた延喜式の神名帳に当神社も記載された神社(延喜式内社)であり、我国では最古の歴史を持つ神社として認められ、氏子八ヶ町はもとより近町崇敬者の尊崇を受ける。
現在の御社殿は寛政5年(1793年)の建立であり、明治6年4月に村社、昭和10年8月には県社に昇格、今年昭和61年7月からは、御由緒・諸設備・維持管理が秀でていることが認められ、「献幣使参向神社」に指定、昇格する。
なお12月16日に謹行される、越年祭は、境内百末社石祠の全国一之宮の天神・地神の神々に対し、祝膳を捧げ、感謝の誠を尽くす御祭儀は大変特殊な神事で当社だけのものである。

社頭掲示板



青麻神社起因

奥州に御本社ある青麻神社は古来より中風病退除、家内安全の守神として其霊験あらたかな事世に広く知られ信仰する患者は必ず快方に向うと言われ、健康な人々は中風を除けんと全国より参詣する者多くあると云う。
 たまたま明治年間、大須賀忠右衛門と云う方が中風にかかりなかなか快方に向かわず思案していた所 知人の話に青麻神社を信仰すれば良いとすすめられ、一心に信仰いたしましたところ病気もだんだん快方に向いつつあった。
 折も折、美和神社境内に六十末社を建設するという話が持ち上がったので、忠右衛門氏も青麻神社を勧誘して美和神社境内にお社を建立し請願したところ中風も全快したのである。
 以来当青麻神社は近辺に稀な中風病退除、家内安全の守神として日々参詣があり近隣は申すに及ばず、遠方は越後方面より参詣に来られる者も多数ある様になった。
維時 昭和63年10月1日
宮司 斉藤吉仁 謹白

社頭掲示板



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