開化天皇の皇子彦坐命の5世の孫日子王が創祀と伝。古く治田山に鎮座し中世上下2社に分れると伝う。武田信玄川中島進攻のときそれを恐れて社号を諏訪神社に変え、天明2年(1782)元へ戻すと伝う。 |
句碑 更級や 治田の神に むさむけて 里やすかれと 祈りつるかな 安政5年8月 源三宣 安政5年(1858)のころ千曲川の氾濫が度々あり、稲荷山と杭瀬下神殿との境界が不明になることが多かった。そのため境界争いになり、幕府に提訴した。幕府は現場検地のために寺社奉行吟味役の調査役人総勢37名を派遣した。その役人の中に「御勘定評定所留役高木源六郎源三宣」が歌を詠みそれを記念して碑に残したものである。 社頭石碑 |