人皇第九代開化天皇の皇子彦座命の五代の孫日子王、信濃に下向し、この地の部民を鎭撫愛護し、荒野を拓いて耕転播種を教へ、又蚕桑の業を教へて永くこの地に留つた。 一説によれば現在裏手に治田山と称する地名があり、往古、治田神社はここに鎮座し、中世において上下二社に分祀したとされている。 |
治田神社 祭神 治田大神(彦座命)・事代主神・倉稲魂神 勧請年代 人皇31代雄略天皇8年 由緒 当神社は、延喜式信濃国四十八座中の一社で、人九代開化天皇の皇子彦坐命の五世の孫日子王が勅を奉じて当国に下向し、部民を鎮撫愛護し(中略)荒野を拓き耕作頒種に意を注ぎに村邑をなすに至り、依て一社を勧請前記の神々を奉祀産土神とし給う。 中世以後は川中島治田庄更科郷の総鎮守治田大宮大神宮と称し、領主の崇敬厚く、直参・代参等しばしば行なわれた。明治14年6月郷社に列格。明治以降稲荷山の里の氏神。 社頭掲示板 |
治田神社 創立年月日不詳であるが白鳳5年再建、寿永2年及び永亨8年兵火により焼失宝徳3年再建の旨口碑により伝えられる。 延喜式神明帳に記帳の當社であって、治田庄更科郷の総社と称し(宝徳3年調製小机ノ裏二八箇村総社の明文存ス)、当町の産土神である。 天文年間武田信玄当国へ出兵の時戦争のちまたに接するので放火のある事を恐れ、かつて信玄の崇敬する諏訪神社を合殿に祭る。 事代主命が当社に合祀されているので諏訪明神と假に称し兵火の苦しみを免れた。 爾来治田神社諏訪明神と称しまた當郡桑原村(元和年中本村を裂テ桑原村ヲ置ク)の諏訪社と一郷中(中古桑原左近地頭タリシ頃桑原郷ト改)に向かい合っているので上下諏訪明神と称し、当社を下の宮とした。 ところが土地の習わしで諏訪明神と單に称し■称は殆ど唱えられなくなったので、天明2年3月吉田家へ願い両社上下治田神社の神宣を受けた。領主代々崇敬の社であって、歳の始めの飾り松の奉納が式列であったが明治4年上田藩廃廳になって終わった。 明治33年6月縣社に列す。 長野県神社庁 |