都努賀阿羅比人の裔清水氏が祀ったという。集落の上。山裾に鎮座する。 往古は氷山大神と称して、清水の郷七ケ村の惣社として社領社域は広大であった、戦乱により荒廃弘化四年(1847)の震災によって古記録・宝物が散逸した。 |
清水神社 本社は草創の年度を詳にせずと雖も往古より本村へ上古帰化の民、任那の國人都怒賀阿羅斯比人の裔孫清水首の祖、某當地と貫居賜り荒廃の土地を開拓し且つ道を造り、久米路の橋を架し當地の市駅を興し功に因り、住地の名を以つて清水首の姓氏を賜はる。又清水は當村上古よりの名にして氷山御社の林塵に清水湧出し郷里の田水を満度し、村民日用に給し大旱の歳と云へども乏しき事を知らず、此の外両所に清水湧出し、依つて地名に相成候由。然るに當山里の僅言に清水を左美都と読り唱へ來候に付、途に三所の清水に依り後世に至り文字を三水と相成候由口傳し來り候。又清水首の祖某、開拓土木の功偏に手力男命の神護に依れる所として勧請せりといふ」。往古は氷山大神と称し清水の郷七ケ村の惣社として神領社域等随て廣く、かつ大なりしが後世に至りて戦乱打続き自然荒廃に附して事蹟も煙滅に帰したり。天文年間遙拝所として里宮二社造営以來本社は盆々衰頽し、殊に天保年間社家の焼失、弘化4年(1847)の震災にて右記録神宝或は散逸して愈詳細を欠きぬ。然れば和名抄郷名に更級郡清水郷歌枕に清水市相見えて、共に現今の三水たることは信濃國式内神社考、「諏訪旧蹟誌、信濃地名考等に依つて判明なり。殊に本社の左側に延喜式内清水神社と刻したる石標あり、他に数字の刻あるも判明せず恐らくは往古の社標ならん。又境内に小池あり種池と云ふ。暴雨大旱にも増減清濁を見ず以つて清水の郷に縁あり。明治25年8月官に申請して當社は氷山鎭座式内清水神社たるの認許を得たり。現今は其の事蹟も確然たるに及び神慮に対して社宇又宏荘となれり 明細書 |