長谷寺内長谷観音堂西方10mに鎮座する。 平安初期には野馬背(ヤマセ)と称していた。 祭神八聖大神は科野國造神八井耳命の孫という。 科野国造小長谷氏との関蓮深く、古くは小長谷氏の氏神社であつたものと考えられる。 本殿はなく、拝殿の背後に1m×2mほどの囲いがあり、御幣が立っている。磐座とも思える石もある。 |
長谷神社 右神社本村之内長谷組産土神延喜式内更級郡拾一座の一社、、旧事記に曰ク科野國造神八井耳命孫古事に曰く神八井耳命科野國造小長谷造等の租なり、祭日3月18日改4月18日。境内老杉周囲二丈四尺高一八間余一本其他梢之に及モノ・三本老松又二、二過本之に及ぶ。當社本殿長く山を以て宮殿とす、土俗傳う古昔長谷に五萬長者なるもの有、此國を統治す、其の祖先を祭る者は則上長谷神社八聖大神なり。故に古來之を地主神と云う之是に依て推考すれば、往古長谷寺領五萬石と云う者は蓋し五萬長者の所領を云うなるべし、想うに信儂國造神八井耳命の、裔漸く衰微し時に仏陀の教、隆盛の際に會し終に之れが爲に其の所領を失うに至れるが、年所を経て戦國英雄割拠の運に會し数度の兵乱にあい、古書遺傳等滅絶し卸ち今証す可きものなし最も中古八聖権現と傳う。然る天保7年旧神祇管領吉田殿へ願旧称に固て長谷神社宣旨文を給はる、その書今に存す。下社本村の内上社同断長谷組の産土神、勧請年月不詳諏訪大神と称す、天保7年上社同時旧称の通長谷神社の宣旨文を給る。 神社明細書 |