始め更級山に鎭座していたが、仁和3年(887)、震災の爲、社地欠崩し、山の麓に在る若桜社(現在地)へ合祀という。 |
佐良志奈神社社標 正面社号は嵯峨実愛の書であり、側面の撰並に書は佐久間象山である。 当社神主松田直友は京都に於いて正親町三条大納言の知遇を得、この書を戴くと共に郷の姑柳原夫人より「更級の里」の歌を賜り社頭の栄として建立の事が碑文に記されている。 作名象山は直友と親交があり度々この地を訪れている。文字は謹厳な隷書体で社蔵の大幡と共に象山の名筆である。 月のみか つゆしもしぐれ 雪までに さらしきらせる さらしなの里 文久元年(1861)建立 戸倉町教育委員会 社頭掲示板 |
佐良志奈神社 延喜式内神社は当時更級郡の中に11社あったが、その中の一社で、創立年月日は宝徳2年(1450)本殿火災のため焼失し、古文書等はそれ以後のものしか現存しない。 社説語伝は允恭天皇の皇子黒彦王の勧請であって、大鷦鷯命は冠着山支嶺(八王子山)に祀ってあったが、仁和3年(887)の地震で現代の八王子組(当時千曲河原)に崩落したため、麓にあった若宮八幡宮に合祀した。 現在でも祭神四体(一体は祭神名不明)が現存している。 当時佐良志奈神社の摂社八王子社(祭神国之狭槌命)は、今も八王子に現存している。正平年中(1346〜70)後醍醐天皇の皇子宗良親王御潜居のおり暫時御所とした、その節の逆襲塚があり台石に『信州若宮永和二年丙辰6月15日契約従衆四五人』と刻んである。 氏子は若宮組三組「黒彦・若桜宮(現在の若宮)・柴原(現在の芝原)」でなかでも黒彦組は戸数多く、市なども立って栄えていたが、天文11年(1542)、慶長2年(1597)、同16年(1612)等度々の水害にあい、千曲川の両岸に移住分村して現在に至っている。 明治15年10月7日郷社に列ぜられる。 長野県神社庁 |
佐良志奈神社 祭神 誉田別命(応神天皇) 息長足姫命(神功皇后) 大鷦鷯命(仁徳天皇) 延喜式内神社は当時更級郡の中に十一社あったが、その中の一社で、創立年月日等は宝徳2年(1450)本殿火災のため焼失し、古文書等はそれ以後のものしか現存しない。 社説語伝は允恭天皇の皇子黒彦王の勧請であって、大鷦鷯命は冠着山支嶺(八王子山)に祀ってあったが、仁和3年(887年)の地震で現代の八王子組(当時千曲川原)に崩落したため、麓にあった若宮八幡宮に合祀した。現在でも祭神四体(一体は祭神名不明)が現存している。当時佐良志奈神社の摂社八王子社(祭神国之狭槌命)は、今も八王子山に現存している。 正平年中(1346〜70)後醍醐天皇の皇子宗良親王御潜居のおり暫時御所とした、その節の逆襲塚があり台石に『信州若宮永和2年丙辰6月15日契約従衆四五人』と刻んである。 氏子は若宮組三組「黒彦・若桜宮(現在の若宮)・柴原(現在の芝原)」のなかでも黒彦組は戸数多く、市も立って栄えていたが、天文11年(1542)、慶長2年(1597)、同16年(1612)等度々の水害にあい、千曲川の両岸に移住分村して現在に至っている。 明治15年10月7日郷社に列せられる。 佐良志奈神社々務所 由緒書 |