佐良志奈神社
さらしなじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】佐良志奈神社 信濃国 更級郡鎮座
          (現在社)八王子宮

   【現社名】佐良志奈神社
   【住所】長野県千曲市若宮 1
       北緯36度29分14秒,東経138度8分31秒
   【祭神】誉田別尊 息長足姫尊 大鷦鷯尊
   【例祭】9月23日 秋季例祭
   【社格】郷社
   【由緒】允恭天皇の皇子黒彦皇子の勧請
       仁和3年(887)震災のため現地に遷
       正平年中宗良親王の御所であった
       明治15年10月7日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初更級山に鎭座していた
        仁和3年(887)震災のため現地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所・炊殿・神庫・直会殿・手洗舎

   【境内社】高良社・天神社・八王子社・稲荷社

始め更級山に鎭座していたが、仁和3年(887)、震災の爲、社地欠崩し、山の麓に在る若桜社(現在地)へ合祀という。


佐良志奈神社社標

正面社号は嵯峨実愛の書であり、側面の撰並に書は佐久間象山である。
当社神主松田直友は京都に於いて正親町三条大納言の知遇を得、この書を戴くと共に郷の姑柳原夫人より「更級の里」の歌を賜り社頭の栄として建立の事が碑文に記されている。
作名象山は直友と親交があり度々この地を訪れている。文字は謹厳な隷書体で社蔵の大幡と共に象山の名筆である。
月のみか つゆしもしぐれ 雪までに
 さらしきらせる さらしなの里
文久元年(1861)建立
戸倉町教育委員会

社頭掲示板



佐良志奈神社

延喜式内神社は当時更級郡の中に11社あったが、その中の一社で、創立年月日は宝徳2年(1450)本殿火災のため焼失し、古文書等はそれ以後のものしか現存しない。
社説語伝は允恭天皇の皇子黒彦王の勧請であって、大鷦鷯命は冠着山支嶺(八王子山)に祀ってあったが、仁和3年(887)の地震で現代の八王子組(当時千曲河原)に崩落したため、麓にあった若宮八幡宮に合祀した。
現在でも祭神四体(一体は祭神名不明)が現存している。
当時佐良志奈神社の摂社八王子社(祭神国之狭槌命)は、今も八王子に現存している。正平年中(1346〜70)後醍醐天皇の皇子宗良親王御潜居のおり暫時御所とした、その節の逆襲塚があり台石に『信州若宮永和二年丙辰6月15日契約従衆四五人』と刻んである。
氏子は若宮組三組「黒彦・若桜宮(現在の若宮)・柴原(現在の芝原)」でなかでも黒彦組は戸数多く、市なども立って栄えていたが、天文11年(1542)、慶長2年(1597)、同16年(1612)等度々の水害にあい、千曲川の両岸に移住分村して現在に至っている。
明治15年10月7日郷社に列ぜられる。

長野県神社庁



佐良志奈神社

祭神 誉田別命(応神天皇) 息長足姫命(神功皇后) 大鷦鷯命(仁徳天皇)
 延喜式内神社は当時更級郡の中に十一社あったが、その中の一社で、創立年月日等は宝徳2年(1450)本殿火災のため焼失し、古文書等はそれ以後のものしか現存しない。
 社説語伝は允恭天皇の皇子黒彦王の勧請であって、大鷦鷯命は冠着山支嶺(八王子山)に祀ってあったが、仁和3年(887年)の地震で現代の八王子組(当時千曲川原)に崩落したため、麓にあった若宮八幡宮に合祀した。現在でも祭神四体(一体は祭神名不明)が現存している。当時佐良志奈神社の摂社八王子社(祭神国之狭槌命)は、今も八王子山に現存している。
 正平年中(1346〜70)後醍醐天皇の皇子宗良親王御潜居のおり暫時御所とした、その節の逆襲塚があり台石に『信州若宮永和2年丙辰6月15日契約従衆四五人』と刻んである。
 氏子は若宮組三組「黒彦・若桜宮(現在の若宮)・柴原(現在の芝原)」のなかでも黒彦組は戸数多く、市も立って栄えていたが、天文11年(1542)、慶長2年(1597)、同16年(1612)等度々の水害にあい、千曲川の両岸に移住分村して現在に至っている。
 明治15年10月7日郷社に列せられる。
 佐良志奈神社々務所

由緒書



信濃国INDEXへ        TOPページへ


学校情報