沙田神社
いさごだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】沙田神社 信濃国 筑摩郡鎮座

   【現社名】沙田神社
   【住所】長野県松本市島立三ノ宮 3316
       北緯36度13分15秒,東経137度56分32秒
   【祭神】彦火火見尊 豊玉姫命 鵜草葺不合尊 沙土煮命
   【例祭】9月27日 例大祭
   【社格】旧県社 信州三の宮
   【由緒】往古東筑摩郡波田村地鷺沢山口に鎮座していた
       大化5年6月28日この地に祭祀する
       大同年間坂上田村麿將軍社殿造営
       仁寿元年造営
       同3年神位を賜る
       元享正中の頃兵災に罹る
       享保12年11月造営
       明治5年郷社
       明治34年4月5日県社
       明治40年9月20日神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】往古東筑摩郡波田村地鷺沢山口に鎮座
        大化5年6月28日この地に祭祀する

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三之宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神樂殿・社務所

   【境内社】

往古は当社の西11.25Kmにある鷺沢嶽(東筑摩郡波田町鷺沢)に鎮座していたといい、奥社が存在する。
穂高系の神を祀りながら、諏訪系の御柱の行事がある。
式年御柱大祭が、卯、酉の年(七年毎)にある。


沙田神社

信州三之宮 式内沙田神
祭神
彦火々見尊
豊玉姫命
沙土煮命
由緒
孝徳天皇の御宇大化5年6月28日この国の国司勅命を奉じ初めて勧請し幣帛を捧げて以て祭祀す。その後大同年間坂上田村麿将軍有明山妖賊征伐にあたり本社の御神力の効する所なりとて国司と議り社殿を造営する。
降って文徳天皇の仁寿元年勅許を蒙り社の造営あり同3年二条大納言有季勅使として神位を賜る。其の後元享正中の交天下大いに乱れ当国亦兵馬駆逐の巷となり当社も遂に本殿を除き其の他の建物悉く焼失す。其の後島立右近これを再建せらる。それより代々の領主は勿論殊に松本城主小笠原政長よりは実に七十余町を寄付し神領として七十石を給せられ更に歴代の城主より次々篤く遇せられ松本城裏鬼門の守護神とさる明治5年郷社に列し明治34年県社に昇格明治40年神饌幣帛料供進に指定せられ大正4年農林大臣早逢整爾鉄道大臣仙石貢閣下等を始め中央地方の名士の寄進により石玉垣が建設さる、尚昭和2年には東筑摩郡波田村地籍波多国有林十五町歩の縁故特売を以て社有地となるも昭和22年農地改革になり解放となる。尚波田村地籍鷺沢嶽に往昔より鎮座せる奥社その付近一丁七段歩の山林は当社の御旧跡地として毎年例祭には該山より萱を刈取仮殿を造り萱穂・柳葉六十六本を六十余州になぞらえて邪神を鎮め平げ天下泰平を希ねがう神事が古式により行はれ今日に至っている
境内面積 貮千百九十坪 奥社面積 壱丁七段歩

社頭掲示板



祭祀

毎年例祭に、鷺澤嶽より萱を刈取來て(年番の氏子の人等民子八ケ区の内二ケ区宛毎年交代し年番を勤む)、お假屋殿(拝殿前にあり)の正面に假殿を作る。此の仮殿の御神座の眞下に大きな桶を置きこの桶に水を少し入れる。由緒不明なれど恒例なり。宵祭典の行事終了し後直ちに古例の神事に移り御神璽を假殿に遷座し奉る。献饌後宮司祝詞奏上、次に萱穗柳葉六六本を六〇余州に数をとり御手祀とし邪神を鎭め平げ天下泰平の神事古式を行ふ。その次第は宮司以下神職一同神前に座し、先づ宮司萱穂と柳葉数本を執持ちて左右左と祓ひ次の神職に手渡す、次の神職も同様に祓ひ次に手渡す。かくて十数回の祓を終り最後に宮司以下神職全員にて四拝八平手を打ち拝禮をなす。次に舞樂の献奏あり終つて御本殿に遷座し古例の神事を終る。氏子総代も全員参列する。尚假殿御遷座の際、他の神饌とともに甘酒と生瓜の切つたものを献饌するのが古例とされてゐる。

式内社調査報告



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