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往古は当社の西11.25Kmにある鷺沢嶽(東筑摩郡波田町鷺沢)に鎮座していたといい、奥社が存在する。 穂高系の神を祀りながら、諏訪系の御柱の行事がある。 式年御柱大祭が、卯、酉の年(七年毎)にある。 |
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沙田神社 信州三之宮 式内沙田神 祭神 彦火々見尊 豊玉姫命 沙土煮命 由緒 孝徳天皇の御宇大化5年6月28日この国の国司勅命を奉じ初めて勧請し幣帛を捧げて以て祭祀す。その後大同年間坂上田村麿将軍有明山妖賊征伐にあたり本社の御神力の効する所なりとて国司と議り社殿を造営する。 降って文徳天皇の仁寿元年勅許を蒙り社の造営あり同3年二条大納言有季勅使として神位を賜る。其の後元享正中の交天下大いに乱れ当国亦兵馬駆逐の巷となり当社も遂に本殿を除き其の他の建物悉く焼失す。其の後島立右近これを再建せらる。それより代々の領主は勿論殊に松本城主小笠原政長よりは実に七十余町を寄付し神領として七十石を給せられ更に歴代の城主より次々篤く遇せられ松本城裏鬼門の守護神とさる明治5年郷社に列し明治34年県社に昇格明治40年神饌幣帛料供進に指定せられ大正4年農林大臣早逢整爾鉄道大臣仙石貢閣下等を始め中央地方の名士の寄進により石玉垣が建設さる、尚昭和2年には東筑摩郡波田村地籍波多国有林十五町歩の縁故特売を以て社有地となるも昭和22年農地改革になり解放となる。尚波田村地籍鷺沢嶽に往昔より鎮座せる奥社その付近一丁七段歩の山林は当社の御旧跡地として毎年例祭には該山より萱を刈取仮殿を造り萱穂・柳葉六十六本を六十余州になぞらえて邪神を鎮め平げ天下泰平を希ねがう神事が古式により行はれ今日に至っている 境内面積 貮千百九十坪 奥社面積 壱丁七段歩 社頭掲示板 |
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祭祀 毎年例祭に、鷺澤嶽より萱を刈取來て(年番の氏子の人等民子八ケ区の内二ケ区宛毎年交代し年番を勤む)、お假屋殿(拝殿前にあり)の正面に假殿を作る。此の仮殿の御神座の眞下に大きな桶を置きこの桶に水を少し入れる。由緒不明なれど恒例なり。宵祭典の行事終了し後直ちに古例の神事に移り御神璽を假殿に遷座し奉る。献饌後宮司祝詞奏上、次に萱穗柳葉六六本を六〇余州に数をとり御手祀とし邪神を鎭め平げ天下泰平の神事古式を行ふ。その次第は宮司以下神職一同神前に座し、先づ宮司萱穂と柳葉数本を執持ちて左右左と祓ひ次の神職に手渡す、次の神職も同様に祓ひ次に手渡す。かくて十数回の祓を終り最後に宮司以下神職全員にて四拝八平手を打ち拝禮をなす。次に舞樂の献奏あり終つて御本殿に遷座し古例の神事を終る。氏子総代も全員参列する。尚假殿御遷座の際、他の神饌とともに甘酒と生瓜の切つたものを献饌するのが古例とされてゐる。 式内社調査報告 |
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物臭太郎の碑(お伽草子) 古くより此処に大きな塚があり「物臭太郎の墓」と伝えられてきた。 お伽草子の中の物語にある太郎の住んだ「あたらしの郷」は史実の「荒田郷」と想定される、往時荒田郷の総鎮守の神であった沙田神社は、延喜式内の古社でここに物臭太郎の墓か伝えられることは又興味深い。 社頭掲示板 |
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沙田神社 沙田は伊左古多と古点あり○ 〇三宮村に在す○姓氏録、(左京諸蕃下)沙田史、百濟國人意俣弖王之後也 神社覈録 |
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縣社 沙田神社 祭神 彦火々出見尊 鵜草葺不合尊 豊玉姫尊 社記に拠るに、当社は廷喜式神名帳所載の古社にして、御尊霊は沙土煮尊、彦火々出見尊、豊玉姫命の三座にましまし、其創記の年代を詳にせずと雖も、今神社より西の方三里なる鷺澤山に鎮座あり、今に影向石一に齊殿石(又は岩居殿或は磐井塔ともいふ)といふありて、此所に隆臨ありしなりと、後孝穏天皇大化5年6月28日、国司勅命を拳じて勧請し、神前に萱穂を以て仮殿を造り、幣帛を捧けて祭祀すと、延喜式筑摩郡沙田神社とある是なり、神名帳考証に「沙田神社、今松本三十町許西南島立組三宮村爾在、五十狭城入彦尊、摂津國河邊郡伊佐具神社旧事紀云、景行天皇皇子五十狭城入彦命、按五十狭城沙訓通、列於阿礼神社前、則此神歟」。神社覈録に、「沙田神社、沙田は伊左古多と古点めり〇三宮村に在す〇姓氏録、(左京諸蕃下)沙田史、百濟國人意保弓王之後也、大日本史神祇志に「沙田神社、(○今在三宮村逢島、其四三里有鷺澤嶽、即其旧址云、土人云、毎卯酉念行御柱神事、日用十月中卯。二十余郷民供其事、)」神紙志料に「沙田神社、今三宮村蓬島にあり、社西三里鷺澤嶽其旧址也、凡毎年7月27日、旧址の萱を刈て神殿を作り祭を行ふ、此日村民各初穂を奉る、七年毎に御柱神事あり、廿一郷の民共仕奉る」とあり、尚社伝に、「今神社は文徳天皇御宇(仁寿元年辛未歳)勅許以神社造営す、廷喜5年12月26日宣下、於山城国愛宕郡如意峰神祇斎塔所奉安鎮三千一百三十二座之神体を、同月28日奉渡神礼於六十余州矣、天下之諸神拳授神号時、於斎場所以神代正印神位受賜て三宮沙田大明神と崇敬奉申と云々」と、仁壽3年大納言有季を勅使として神位を賜ひ、降つて元享正中の交天下大に乱れ、当社亦兵災に罹りしが、辛うじて本殿のみ僅に其災を免るるを得たりと云ふ、此時神領七十余町あり、其後鏡次郎遠光の末流島立内匠社殿を造立す、後小笠原修理大夫貞朝、同大膳大夫長棟、同信濃守長時、同右京大夫貞慶の時まで、神領七十石なりしが、畏時貞慶落去の後、石川玄蕃頭に至り蔵地入百姓地となる、小笠原兵部大夫秀政再び松本に入城の時、神領十石、外に祭典料として籾子三石五斗、並に七年一度御柱遷宮料として同四十俵を寄附す、然るに同氏豊前小倉に転じ。戸田丹波守代つて領主となり、再び年貢地となりしを、松中出羽守領主となりし時より、爾後の領主何れも若干の神領を寄附せり、例祭には鷺澤嶽より萱穂を刈取り、社殿を建設して祭典を執行するを例とし、又卯酉七年毎に御柱祭執行の例あり、古来大祝神主両家奉仕せしが、明治5年廃せらる、同年11月郷社に列し、同34年3月縣社に昇格す。 社殿は本鍛、拝殿、神楽殿、社務所、鳥居等を具備し、境内坪数1871坪(官有地第一種)あり、 明治神社誌料 |