|
式内社の「阿智神社」は、現在の阿智神社と安布知神社のどちらだったのか釈然としない。鎮西清浜が、「昔は駒場の社(現安布知神社)を前宮、昼神(現阿智神社)を奥の宮と言へり」と書いている 文化元年(1804)に京都の神祇官領長から「安布知神社宣状」を受けているにもかかわらず、 この社名が使われず、新羅明神として村人に親しまれてきた。 なお、古くは神宮寺として神光寺があったといわれている。本尊は文殊菩薩。 『社伝』によれば「仁徳天皇56年(368)3月、八華形の鏡を思兼命の霊代として、 明燈山の山頂に小祠を建立し地主神として斎きまつり、吾道(あち)大神宮ととなえ奉った。 彼の八華形の鏡が夜毎に光を放ちたるにより明燈山、光燈山と称した」という。 |
|
由緒 御祭神は天思兼命(あめのおもいかねのみこと)須佐之男命(すさのおのみこと)誉田別命(ほむたわけのみこと)。 社伝によれば人皇16代仁徳天皇56年、この地の地主神が明灯山に夜光となって現われ、山の枯木の元を掘れとのお告げにより掘ったところ、八花鏡を見いだし、この鏡を御霊代として祠を建てて祭ったのが当神社の創建であるといわれている。 天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふりべ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。 またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで駅馬30頭をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めている。 慶雲3年(706年)八幡大神を勧請して相殿に祭り、また天正3年(1573年)松尾城主小笠原信貴は甲斐源氏の遠祖にゆかりの新羅明神を近江國三井寺から勧請して、三間社流れ造り、間口18尺、奥行9尺の善美をつくした神殿を造営し、天思兼命を主神に八幡神、新羅明神を相殿に奉斎し、日之御子大明神を明灯山に勧請した。 その後寛文11年(1771年)駒場上町の領主宮崎太郎左衛門公重により規模様式共に天正のままの社殿を再建したのが現存する本殿で、正面の金柱、欄間の彩色等造営当時の華麗さをしのぶことが出来る。 なお、拝殿は延宝3年(1575年)神主林杢太夫の建立で、境内のヒイラギ、サカキと共に村指定の文化財である。 また江戸時代は徳川幕府から朱印領10石が寄進され、慶安2年(1649年)徳川家光以来幕末まで9通の朱印状が現存する。 主な恒例祭典。 元旦祭1月1日午前6時。 厄除交通安全祈願祭、勧学祭1月第2日曜日。 入学祭4月3日。 風祭8月29日。 例祭4月15、16日(祈年祭)10月7、8日。 新嘗祭11月25日。 大夜6月30日、12月27日。 除夜祭12月31日。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
|
安布知神社本殿 阿智村有形文化財 安布知神社本殿・拝殿 古代東山道阿智駅跡とされる関田の平坦地を一望におさめる丘陵の中腹、清坂の地に鎮座した本社は、「信濃国二天降リタマヒ、阿智の祝部等が祖(先代旧事本紀)」とされる天思兼命を主神に祀る古社で、須佐之男命、誉田別尊を合殿とする。 現存する本殿は、寛文11年(1671)駒場村上町の領主宮崎太郎左衛門公重の造営で、三間社流造、こけら葺き、二重、垂木、組物は母屋が出組、向拝は連三斗を用い、内陣の間口5.4m、奥行2.4m、飯伊地域でも大規模な社殿に属する。正面階段には各柱ごとに昇降欄を備え、組物・長押等には極彩色が施され、正面四本の内陣柱は金箔装とし、中具は撥束を用い、右から唐獅子、波に紅葉、鳩の彩色画があって、いずれも蔀戸の内にあるため退色が少なく、造営当時の美しさがしのばれる。向拝部の蟇股の意匠は、右に唐獅子、左に鳩を透彫りとし、中央は丸に井桁紋(領主宮崎氏の紋章)で、頭貫の左右の木鼻には象頭の彫刻があり、これらには室町末期の様式の影響がみられる。 排殿は問口柱間三間、奥行二間、入母屋造妻入りで、延宝3年(1675)当社の神主林氏が造営した。周囲は格子造で、軒は一軒疎垂木とし、内部は格天井て格間には彩色画が描かれているがほとんど退色し、はげ落ち画多い。 阿智村教育委員会 社頭掲示板 |