安布知神社
あふちじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】阿智神社 信濃国 伊那郡鎮座

   【現社名】安布知神社
   【住所】長野県下伊那郡阿智村駒場 2079
       北緯35度26分50秒,東経137度44分43秒
   【祭神】天思兼命 (配祀)誉田別命 須佐男命
   【例祭】10月8日 例祭
   【社格】
   【由緒】仁徳天皇56年創建
       慶雲3年(706年)八幡大神を勧請

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「よさか八幡」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

式内社の「阿智神社」は、現在の阿智神社と安布知神社のどちらだったのか釈然としない。鎮西清浜が、「昔は駒場の社(現安布知神社)を前宮、昼神(現阿智神社)を奥の宮と言へり」と書いている
文化元年(1804)に京都の神祇官領長から「安布知神社宣状」を受けているにもかかわらず、 この社名が使われず、新羅明神として村人に親しまれてきた。 なお、古くは神宮寺として神光寺があったといわれている。本尊は文殊菩薩。
『社伝』によれば「仁徳天皇五十六年(368)三月、八華形の鏡を思兼命の霊代として、 明燈山の山頂に小祠を建立し地主神として斎きまつり、吾道(あち)大神宮ととなえ奉った。 彼の八華形の鏡が夜毎に光を放ちたるにより明燈山、光燈山と称した」という。


由緒

御祭神は天思兼命(あめのおもいかねのみこと)須佐之男命(すさのおのみこと)誉田別命(ほむたわけのみこと)。
社伝によれば人皇16代仁徳天皇56年、この地の地主神が明灯山に夜光となって現われ、山の枯木の元を掘れとのお告げにより掘ったところ、八花鏡を見いだし、この鏡を御霊代として祠を建てて祭ったのが当神社の創建であるといわれている。
天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふりべ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。
またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで駅馬30頭をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めている。
慶雲3年(706年)八幡大神を勧請して相殿に祭り、また天正3年(1573年)松尾城主小笠原信貴は甲斐源氏の遠祖にゆかりの新羅明神を近江國三井寺から勧請して、三間社流れ造り、間口18尺、奥行9尺の善美をつくした神殿を造営し、天思兼命を主神に八幡神、新羅明神を相殿に奉斎し、日之御子大明神を明灯山に勧請した。
その後寛文11年(1771年)駒場上町の領主宮崎太郎左衛門公重により規模様式共に天正のままの社殿を再建したのが現存する本殿で、正面の金柱、欄間の彩色等造営当時の華麗さをしのぶことが出来る。
なお、拝殿は延宝3年(1575年)神主林杢太夫の建立で、境内のヒイラギ、サカキと共に村指定の文化財である。
また江戸時代は徳川幕府から朱印領10石が寄進され、慶安2年(1649年)徳川家光以来幕末まで9通の朱印状が現存する。
主な恒例祭典。
元旦祭1月1日午前6時。
厄除交通安全祈願祭、勧学祭1月第2日曜日。
入学祭4月3日。
風祭8月29日。
例祭4月15、16日(祈年祭)10月7、8日。
新嘗祭11月25日。
大夜6月30日、12月27日。 除夜祭12月31日。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




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