意富比神社
おおひじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】意富比神社 下総国 葛飾郡鎮座

   【現社名】意富比神社
   【住所】千葉県船橋市宮本 5-2-1
       北緯35度41分46秒,東経139度59分34秒
   【祭神】天照坐皇大御神 (配祀)万幡豊秋津姫命 天手力雄命
   【例祭】10月20日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】景行天皇41年4月湊郷に創立
       その後社地を北の大日山といわれた台地に移転
       貞観5年(863)5月26六日正五位下
       同13年4月3日正五位上
       同16年3月14四従四位下
       慶長19年(1614)五十石の社領
       明治維新の際、兵火によつて社殿炎上
       明治5年(1872)県社
       同15年社殿再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】景行天皇41年4月湊郷に創立
        その後社地を北の大日山といわれた台地に移転
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「船橋大神宮」と称していた
   【公式HP】 意富比神社
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神門・神樂殿・貴宝館

   【境内社】外宮・稲荷神社・天之御柱宮・常磐神社・浅間神社
       八雲神社・八劔神社・八坂神社・大鳥神社

   【神宮寺】船橋九日町の覚王寺とも西夏見村の同寺末薬王寺ともいう
   【境内図】 境内図

船橋大神宮と通称している。
日本武尊東征のとき、葛飾郡湊郷(今の船橋)で戦い劣勢になったとき海上で光るものがあり、舟の中に安置した神鏡の前で矢を放ち勝利した、その神鏡を湊郷に祀った。
のち社地を北方高陵の地(夏見の地)に移したが、その後さらに現在の地に奉遷した。
この地は伊勢神宮の御厨であり、御厨の中心夏見(当社の北方約2Km)に神明宮が祀られた。
御厨衰退とともに、式内意富比神社に合祀せられたが、その後神明の名が高くなり、意富比神社の名は浬滅し、船橋神明の名が広く伝わった。


由緒

当船橋大神宮は、景行天皇の御代40年に、皇子日本武尊が御東征の途次、船橋湊郷に到着なされ、東国平定の目的成就を御祈願なされたのを以てその御創建とします。当時隅々住民が旱天に苦しんで居り、尊は併せて祈雨の由を念じられますと、一天俄にかき曇り雷雨起り、土地が潤ったと言われて居ります。其後、景行天皇東国へ御巡幸の折、その御事績を御追憾なされて「意富比神社」の御社号を賜り、後には延喜式にも記載されて居ります。以来、朝廷・将軍家などより御崇敬極めて篤く、清和天皇貞観13年3月には、勅願により天下泰平・五穀豊饒を御祈念なされるため奉幣使の下向あり、また後冷泉天皇の御代天喜年間には源頼義・義家の両朝臣当宮を修造し、また仁平年間には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝之を奉じて当宮を再興されましたが、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。また鎌倉時代、日蓮上人は篤く当宮を崇敬され、自己の宗旨興隆発展のため断食祈願の上自筆の曼荼羅と剣を御奉納されました。降って徳川家康公は社領を御寄進、伊奈備前守忠次を奉行として摂末社を御造営せしめました。以後、徳川十五代に亘る間各々に五十石の禄高を献納されて居りました。更に、明治天皇陛下には習志野練兵場、三里塚御料牧場へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠なされました。旧社殿における祭典の様は、江戸名所図会にも描かれて居りますが、明治維新の戦火によって焼失し、其後明治6年(本殿)、同22年(拝殿)と順次御造営せられ、以後大正12年、昭和36年、更に昭和50年と各々に本殿、拝殿、末社、玉垣、参道、大鳥居などの改修を経て今日に及んで居ります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




船橋大神宮の由来

当船橋大神宮は景行天皇の御代40年に、皇子日本武尊が御東征の途次、船橋湊郷に到着なされ、東国平定の目的成就を御祈願なされたのを以てその御創建とします。当時偶々住民が旱天に苦しんで居り、尊は併せて祈雨の由を念しられますと、一天俄にかき曇り雷雨起り、土地が潤ったと言われて居ります。
其後、景行天皇東国へ御巡幸の折、その御事績を御追憾なされて「意富比神社」の御社号を賜り、後には延喜式にも記載されて居ります。
以来、朝廷.将軍家などより御崇敬極めて篤く、清和天皇貞観13年3月には、勅願により天下泰平.五穀豊饒を御祈念なされるため奉幣使の下向あり、また後冷泉天皇の御代天喜年間には源頼義・義家の両朝臣当宮を修造し、また仁平年間には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝之を奉じて当宮を再興されましたが、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。
また鎌倉時代、日蓮上人は篤く当宮を崇敬され、自己の宗旨興隆発展のため断食祈願の上自筆の曼陀羅と剣を御奉納されました。
降って徳川家康公は社領を御寄進、伊奈備前守忠次を奉行として摂末社を御造営せしめました。以後、徳川十五代に亘る間各々に五十石の録高を献納されて居りました。
更に、明治天皇陛下には習志野練兵場、三里塚御料牧場へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠なされました。
旧社殿における祭典の様は、江戸名所図絵にも描かれて居りますが、明治維新の戦火によって焼失し、其後明治6年(本殿)、同22年(拝殿)と順次御造営せられ、以後大正12年、昭和36年、更に昭和50年と各々に本殿、拝殿、末社、玉垣、参道、大鳥居などの改修を経て今日に及んで居ります。
御祭事
〔恒例〕
1月1日   元旦祭
1月2日   新年祈祷祭
2月3日又は4日 節分祭
2月17日  祈年祭
4月3日   水神祭
6月1日   常磐神社(末社)例祭
6月30日  大祓
7月1日   浅間神社(末社)例祭
10月19日  外宮例祭
10月20日  例大祭(相撲行事有)
11月23日 新嘗祭
11月15日 七五三祈祷
12月酉の日 大鳥神杜(末社)例祭
12月31日 大祓・鎮火祭
毎月1日、15日 月例祭

社頭掲示板



意富比神社

おそらくは、御厨建立の後、その本郷といふべき夏見の地(當社の北方約2Km)に神明さまが勧請せられ、これが御厨衰退とともに傾廃して、式内意富比神社に合祀せられ、一たび合祀せられると、神明の名が高くなり、意富比神社の名は浬滅し、船橋神明の名が独り行なはれるやうになつたと考へられる。

式内社調査報告



船橋大神宮

景行天皇の御代40年に皇子日本武尊が東国御平定の途次此の地に至らせられ、伊勢皇大神宮の御分霊を奉斎なされ、同53年に、天皇御東行の砌、日本武尊の御事蹟を御追憾意富比神社の称号を賜る。
後冷泉天皇御代天喜年間には源義家、頼義、両朝臣当宮を修造せられ、亦、仁平元年には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝之を奉して当宮を再興、其の文書には船橋伊勢皇大神宮とある。
日蓮上人は宗旨の興隆発展成就の為当宮にて断食祈願を行い、徳川家康公は社領を寄せられ奉行をして本殿、諸末社を御造営せしめ 近く明治天皇陛下には習志野、三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠遊ばされる。
現在の御社殿は維新の戦火に罹災後、明治7年に本殿、同22年に拝殿が竣工し以後大正12年、昭和38年、同50年に各々社殿、末社、鳥居、玉垣等に至る迄の大改修或いは御神泉の奉納、灯明台(県民俗資料指定)の修復等を経ている。

社頭石碑



意富比神社

(県社)意富比神社,東葛飾郡(舊東葛飾郡)船橋町大字船橋五日市字宮内に在り,境内4818坪,祭神は天照皇太神なり,相殿に萬幡豊秋津姫命,天手値から雄命を合祀す。社傳に云ふ,景行天皇41年4月日本武尊東征の時始めて之を船橋海神村に奉祀し以て戦捷を祈る,同53年夏見村に移す,貞観5年5月従五位上,同16年従四位下を授けらる。延喜式載する所の葛飾郡二座の一なり,天喜三年源頼義・義家等祈る所あり社殿を造營す,仁平元年6月源義朝院宣を奉し船橋以下六郷の地を寄附す,後源頼朝之を葛西清重に輿へて神領を失ふ,應永6年4月千葉満胤再び船橋六郷の地を寄附す,天正19年11月徳川家康社領五十石を附し,諸役免除の朱印書を下すと。明治元年4月兵焚に罹り社殿消失し,同3年有志者再造を企て同4年に至り竣功す,同7年1月懸社に列せらる。本社は俗に神明宮或は太神宮と稱し毎年数回古雅の神事を執行す,明治の初め10月19日・20日を以て祭日と定む,古来近郷舊七村(船橋五日市場・同九日市場・同海神・東夏見・西夏見・米崎・七熊)の鎮守たり,攝社三座・末社三十七座あり,又境内に燈明臺あり,高さ八丈,燈光海面六浬に達すと云ふ。明治39年12月幣帛料供進指定

稿本千葉県誌



意富比神社

景行天皇40年に、皇子日本武尊が東国御征討の途次、船橋湊郷に御到着、天照皇大神を祈誓、奉祀されたことを以て創建とする。後に景行天皇がその御事蹟を追慕され「意富比神社」の称号を賜わった。
仁平年間、源義朝が院宣を受けて神社再興の折「船橋伊勢大神宮」とも記載される。
鎌倉時代、日蓮上人が断食祈願をする。徳川幕府は家康公以来代々五〇石の禄を献ずる。現社殿は明治初期より中頃にかけて修造され、大正12年以後昭和に入り本殿、末社参道、玉垣等の改修を数度重ねて今日に至る。

社頭掲示板



意富比神社

景行天皇40年、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国御平定の折、当地にて平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神を祀り祈願された処、御神徳の顕現がありました。これが当宮の創始であります。
 平安時代、延長5年(927)に編纂が完成した『延喜式』にも当宮が記載されており、式内社としての歴史を知ることができます。
 後冷泉天皇の御世、天喜年間(1053-58)には、源頼義・義家親子が当宮を修造し、近衛天皇の御世、仁平年間(1151-54)には、船橋六郷の地に御寄付の院宣を賜り、源義朝が之を奉じて当宮を再建し、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。
 鎌倉時代、日蓮聖人(1222-82)は宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納されました。
 江戸開府の頃、徳川家康公(1546-1616)は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通して五十石の土地が幕府から寄進され幕末に至りました。
 近代に入り、明治天皇陛下(1852-1912)には習志野・三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠遊ばされました。
 往時の諸社殿の景観は、江戸時代末期の「江戸名所図会」に窺えますが明治維新の戦火のため焼失しました。
 その後、明治6年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正12年(1923)、昭和38年(1963)、同50年(1975)、60年(1985)に本殿・拝殿・末社・鳥居・玉垣・参道に至るまで随時造営がなされ、県文化財指定の灯明台の修復なども経て、今日に至っております。
「意富比」の語義
 意富比(おおひ)神社は、船橋大神宮の名で知られる船橋地方最古最大の神社です。初出の文献は、平安中期の『日本三代実録』貞観5年(863)の記事で、「下総国意富比神」とあります。これは、船橋市域に関する文献として最古のものです。また平安中期の格式ある神社を記した『延喜式』(えんぎしき)の「神名帳」(じんみょうちょう)にも、下総国11社の中に「意富比神社」として載せられ、東国では数少ない「式内社」(しきないしゃ)でありました。
 この意富比の語義と神格について古くは、「大炊」で食物神とする説があり、戦後は古代豪族オホ氏の氏神とする説などが出されました。その後、意富比の古い読みは「おほひ」であり、上代特殊仮名遣いの上から「日」は「比」等で表され、「火」は「肥」等で表される点を考慮し、さらに歴史的にみても意富比神社が古くから太陽信仰と深い関係をもっていたことを考察に加えて、意富比神は「大日神」すなわち「偉大な太陽神」が原義であるとする説(三橋健「意富比神考」)が登場します。つまり中世から幕末までは一般に「船橋神明」と称され、主祭神を天照皇大御神とする意富比神社も、原初は古代のこの地方最大の太陽神であったとするもので、現時点では最有力な説となっています。

公式HP



意冨比神社

意富比は仮字也○祭神天照皇大神、(地名記)〇船橋郷に在す、(同上)例祭月日、
神位
三代実録、貞観5年5月26日戊子、授下総国從五位下意富比神正五位下、同13年4月3日己卯、授下総國正五位下意富比神正五位上、同16年3月14日癸酉、授下総國正五位上意富比神從四位下、

神社覈録



縣社 意富比神社

祭神 天照皇大神
相殿 萬幡豊秋津姫命 天手力雄命
創建は紀伝に拠るに、景行天皇41年、日本武尊東征、湊郷に到り給ひし時、天大に旱し、井泉涸褐し、草木枯摘す、尊、今の海神村に祭場を設け、伊勢神宮を奉齋して祈られしに忽ち油然として黒雲伊勢の方より起り来り、大爾沛然として降る、時に爾霧て後、光を放ち海上を航し来る者あり、尊近いて観れぱ、船中幣帛垂下の榊に神鏡の懸るあり、即ち奉じて、天照皇大神の御形代として奉斎す。是れ当社の創建にして、後ち同53年、景行天皇東幸の際、北方の丘陵、即ち今の夏見村の丘陵に奉遷せり、後世現今の地に鎮座せられたるなり清和天皇貞観5年5月戊子、従五位下意富比神に正五位下を、同13年4月己卯、更に正五位上を授られ、次いて16年3月癸酉從四位下を加ふのよし三代實録に見え、延喜の制式内の小社に列せらる、近衛天皇仁平元年6月、源義朝、後鳥羽天皇の院宣を奉して船橋六郷を寄進せしが、後ち源頼朝の奪ふ所となる、順徳天皇承久元年4月16日、千葉満胤再び六郷を寄進す、当時の寄連状中に云く、「東限覆宮塚、南限海、西限洗川並沓懸、北限石祓路」とあり、後陽成天皇天正19年11月、徳川家康社領として朱印五十石を寄進せり、爾来徳川家の崇敬する所となる、後陽成天皇慶長13年社殿改築、桃園天皇宝暦11年、勅して住古の例に依り毎歳大麻を奉献せしむ、時に神官從五位下に任ぜらる、現代又朝廷の御崇敬厚く、奉幣前後四回に及べり、明治5年8月縣社に列す、社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神楽殿、同拝見所、宿直所等あり、荘厳を極む、境内は4818坪(官有地第一種)小丘に在り、老樹森々として参者自ら襟を正す、又明治42年9月陸軍省より特に十門余の戦利砲を奉納せらる、又大客殿を新築し撹内に敏百株の常磐木及桜木等を植え風致益備はれり。
本社境内社に常磐神社あり、祭神は日本武尊にして、相殿に東照宮、秀忠公を祀れり、初め後陽成天皇の慶長13年徳川家康意富比神社造営の節相殿に坐す日本武尊を殊に尊崇し、木ノ御形を造り納め奉る、後水尾天皇の元和8年10月二代将軍秀忠境内神榊の山麓に一社を建て、父家康所納の日本武尊の木ノ御像を移して奉齊し常磐神社と号し、併て家康所納の常磐箱も同社内陣に移し、且東照権現の片歯を藏する木ノ御形を造り、左の相殿に齋祀せり、後、明正天皇の寛永16年三代将軍家光又其父秀忠の木ノ御形を造り、右の相殿に 奉齊せり、以来徳川氏代々の崇敬厚く、從て維新以前は毎歳7月17日盛大なる祭典を執行し、江戸在府の諸侯悉く参詣せりと云ふ。

明治神社誌料



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