茂侶神社
もろじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】茂侶神社 下総国 葛飾郡鎮座

   【現社名】茂侶神社
   【住所】千葉県松戸市小金原5−28
       北緯35度49分8秒,東経139度56分34秒
   【祭神】大物主命
   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       貞観13年(871)11月12日従五位上
       元慶3年(879)9月25日正五位上
       寛正2年(1461)2月造営
       寛文4年(1664)4月造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「茂侶神社」「香取明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

水戸光圀によって式内社茂侶神社である可能性を指摘された。
「式内社調査報告」には「栗ヶ澤説」と記され、「論証を欠いて、まつ問題にならない」と記されている。


茂侶神社

仰々當神社は今から凡そ壹千年前古代平安時代の中期に完成した延喜式神名帳(927)によれば下總国葛飾郡内二社中の一社で正五位の格式社であり祭神は大物主命である中世室町時代寛正2年(1461)2月にはこの地に本拠を置いた戦国大名高城下野守胤吉が當社の本殿及び拝殿を再建し當地方の鎮守とし武運長久の祈願社としていた。
近世江戸時代の初期に至り小金西新田(現小金原二・三・六・七町目の一部分)に在った水戸家所領83万平方米(約83町歩)に黄門義公お鷹場の役所を設け領地の南北に表裏二門を建て放鷹を行っていたが偶々當社が正五位の格式社であることを知り寛文4年(1664)4月家臣板野伊藤の両名を遣し本殿拝殿の修復を行い義公自ら茂侶社と書した扁額を献じ水戸家より代々祭典料を営繕料が給せられた。
また現在の社名額は明治16癸未年2月7日明治大帝の御弟君有栖川宮一品幟仁親王の御親筆でありこの年代には社格が高木村々社となり爾来大祭(10月17日)の祭典は村費により賄われ祭禮は全村挙げての盛儀となり司祭の神官は代々友野氏が担当していたその頃の神域参道百米に及ぶ両側には樹齢参百年以上の老樹鬱蒼と生い茂り昼なお暗く特に本殿裏境内には七・八百年を超す老杉数拾本が天を摩して聳え参詣者をして自ずと襟を正さしめる神威を四方に光放っていた。
然るに昭和38年日本住宅公団の小金原団地造成事業の施行により境内は縮小され老樹も多く枯損し現存の老木は椎六本と参道入口に樹齢凡そ五百年の老松を残すのみとなり神域の景観は昔日の森厳さを失うに至った。
よって茲に会員一同相い議し神域を整備して御神域の益々の隆盛ならむことを祈念し奉り併せて社史を後世に伝へるため碑に刻して永く御神徳の弥栄を希うものである

社頭掲示板



茂侶神社

茂侶は假字也○祭神大日霊尊、月弓尊、素戔鳴尊、蛭児尊、(地名記)〇栗ケ澤村に在す、(同上)例祭月日、
神位
三代実録、貞観13年11月11日癸未、授下総國從五位下茂侶神從五位上、元慶3年9月25日壬子、授下総國正五位下茂侶神正五位上

神社覈録



茂侶神社

高木村栗ヶ澤にあり、指定村社にして大物主命を祀る、境内坪數四百七十坪、社殿間口五尺奥行五尺あり、境内神社は八坂神社、菅原大神、稲荷大神の三社なり、由緒に曰く、創立年月日不詳、社殿再建は寛文4年中水戸黄門寄附にして以来修繕の節は同御家より御代々修繕手當として白銀被賜候。

千葉縣東葛飾郡誌



下総国INDEXへ        TOPページへ


学校統廃合