この地は、江戸時代千葉県流山市にある茂侶神社の氏子区域であった。 慶長3年(1598)に現在の江戸川が掘鑿され、氏子区域が分断されたため、元和年中茂呂神社を分祀しこの地に創建。 |
三輪明神由緒並びに新築記念之碑 三輪の社は大己貴尊少彦名尊を祭神として古来より国土開拓の神として特に農耕を中心とした工商すべての産業開発の神であり 人々の日常生活の守護神であります。 この社の大神は遠く奈良県の三輪山(三諸の神奈備)をご神体として奉斎されています 千葉県流山市三輪野山にある式内社茂呂神社はそのご神体を分霊された社であり延喜式神名帳という平安時代初期の書物にもその名がみられる由緒ある社です。 慶長年中以来父祖の地二郷半領の新田開発が進められ 整地され やがて元和年中(1615年〜1623年)三輪野山の茂呂神社よりそのご神体が分霊され祭られたのが当郷の三輪の社であります 享保3年には時の神祇道官領卜部兼敬によって正一位三輪大明神の宗源宣旨を受けております 以来 多くの人々の尊崇を受けて今日に至ってまいりました 創立より360有余年 この間何度かの新改築が行なわれてきましたが 近年老朽が甚だしくなり 氏子一同協議の結果拝殿を新築することに決まりました その資金として社有地の一部売却ならびに氏子一同の寄附金をもって新拝殿及び諸整備が美事に完成し 多年に亘る念願がここに達成されました。 氏子一同この慶びを記念してここに碑を建立します。 昭和59年5月吉日建之 社頭掲示板 |
三輪明神社 平本主膳、當所開發の頃隣村三輪野山村の三輪明神を移し祀れりと云、村の鎮守にて大光院持、 新編武蔵風土記稿 |
三輪神社 江戸川右岸の水田地帯である当地は、『風土記稿』によると、平木主膳が開発したとされ、同家系図に「慶長17年(1621)下総国小金大谷口の浪士平木主膳定久18歳の折に入植とある。 当社の創建について『風土記稿』は「主膳当所開発の頃、隣村三輪野山村の三輪明神を移し祀れりと云」とあり、更に「村の鎮守にして大光院持 末社水神 天神 稲荷」と載せている。 隣村の三輪明神とは現在千葉県流山市三輪野山にある三輪神社で、古代には式内社茂侶神社と呼ばれた古社であり、祭神は大物主命である。 当社を管理していた大光院は隣接して阿弥陀如来を安置していたが、幕末には無住となり明治初期に廃されている。 本殿には、享保3年(1718)の宗源宣旨と宗源祝詞があり、正一位の神位を受けたことがわかる。このほか、金幣を納め、また、古雅な狛犬一対がある。更に富土権現立像が安置されており、これは『明細帳』に「明治43年3月16日無格社浅間社合併」とある字浅間から移したものである。同年、江戸川の端より七面社を合祀したが、後日戻されている。 埼玉の神社 |