豊城入彦命の裔上毛野君と同族の桑原臣の一族がこの地に住んで、その祖(豊城入彦命かその他)を祭つたのが当社の起りであろう。初め鬼怒川の右岸元屋敷(古明神)にあつたが、延宝6年(1678)現在地に奉遷した。 |
由緒 当社は下総国司従四位桑原王が、この地を開拓のさい里人を率先し、宝亀3年3月里の 総鎮守神として創祀鎮齋。始め鬼怒川の右岸に御鎮座しておつたのを、延宝6年現神地 に奉遷した。中世戦乱や世変のため伝を失い、香取神社と思われていたが、享保年中棟 札によって延喜式神明帳に下総国岡田郡一座小 桑原神社と知ったと伝う。(鎌倉時代 の板碑十数枚現存す) 明治6年岡田・豊田両郡の総社と定められ、郷社に列格。同40年5月13日(第234号)供進指定。昭和27年8月18日宗教法人設立。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
桑原大明神 延喜式内社 宝亀3年(772)3月、名国守下総守従五位下桑原王の創祀になり、祭神は王の祖豊城入彦命と天熊大人命で開拓荘園の守護並びに治水と五穀の豊饒を祈願せしものである。 この神社は始め平将門公の父従四位下鎮守府将軍平良将公が昌泰年間(898−901)頃から下総国亭(庁)を置いて政治を行った東方の台地鬼怒川右岸□谷岸古明神の地に在り下総豊田開発の祖神として両公の尊崇するところ並々ならず。爾来降雨農耕の守護神として崇拝されて来たが延宝6年(1678)在地住民の移居に伴い此の地に奉遷され豊田岡田両郡の郷社として近世に至った。 別当に不動院で明治42年(1909)2月日枝神社及び佐田彦神社を合祀し婦人臨産の際大明神を信仰すれば難産の患なしと云われる。 石下町 石下町観光協会 社頭掲示板 |
桑原神社由来 これより東方、国生字本屋敷は、往古より、悠々と流れる鬼怒川を眼下に望む台地にあった。この地は、古墳時代の前期に、既に大きな居館があった。 貝塚あり、前方後円墳あり、竪穴式住居あり、又、江戸時代の住居の所在も遺跡等から明らかにされた。 古くは厄1600年の昔から、時には大きな館敷地として、郡役所として、又、村人の居住集落として使われたことが窺いしれる。 続日本紀によれば、下総の国司であった桑原王は宝亀3年(772)に、この地(本屋敷)に桑原神社(古明神)を創祀する。社記の祭神は、王の祖である豊城入彦命、天熊人、稚彦命及び大山咋で開拓荘園の守護並びに治水と五穀豊饒を祈願せしものである。すなわち、桑原王は農神をこの地に奉祀し、未開拓の東国に衣食の恩沢を知らしめ、農業発展の守護神としたものであろう。 延喜年間(902〜921)従四位下鎮守府将軍、平良将、将門父子も国亭をこの地に置き政治を行い、下総豊田開発の祖神として尊崇す。爾来、板東農耕の守護神として崇敬さる。 時は流れ、江戸時代、現在地、畑地なるも、居住地たる本屋敷、作物の収穫大なるを知り、国生の集落は、次第に西に移り、延宝6年(1678)本神社も奉遷す。 その後、正徳2年(1712)に正一位の昇格申請したるも、古棟牌等不明のため香取社として許可さる。享保4年(1719)本殿建替えとなり寛永2年(1625)の棟牌(日本国関東下総国生桑原大明神造立一宇)を発見、この棟牌を役所に届ける。 これより40年後の宝暦8年(1758)、当時の寺社奉行阿部伊予守より呼び出しがああり、延喜式内桑原神社を証明する書状が名主に下付さる。大いに感激した氏子達は法楽を奉納した。木神社、別当不動院とも、時には五穀豊饒、安産祈願の対象として、又、民衆の憩いの場とそて、盆踊りや祭礼が行われ、生活の中に深く根ざしていた。 ここに、本殿並びに拝殿改築にあたり、はるか千数百年の時の流れを回顧し、先人の偉業をたたえ、本神社の由来を表記する。 昭和63年11月吉日 石下町長 松崎良助 撰 社頭石碑 |
桑原神社 桑原は久波波良と訓べし、和名鈔、(郷名部)葛飾郡桑原、○祭神天熊人命、(地名記)〇國生村に在す、(同上)例祭月、日、O姓氏録、(左京皇別下)桑原臣、上毛野同氏、豊城入彦命五世孫多奇波世君之後、 神社覈録 |
郷社 桑原神社 祭神 天熊大人命 稚彦命 猿田彦命 大山咋命 創立年代及由緒詳ならず、延喜の制小社に列せられたる古社なり、是地古来幾度か兵戈の犯す所となりしといへども、未だ曾て此の禍を受けず、厳として一郷の鎮社たり、営繕費の如き、又■村の濟弁する所にして、曾て他に依らず、又其欠乏を聞かず、蓋神徳の致す所か、正徳年中主者其傅を失ひ香取明神の號を進めしが、享保4年、寛永以降の棟札を獲て桑原神社なることを知り、次いて宝暦8年幕府寺社奉行をして当社の故事を検討せしめしより、益世人渇仰する所たり、明治の初郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、境内は596坪(官有地第一種)あり、明治42年2月同村大字國生無格社日枝神社二社、同佐田彦神社を本社へ合併せり、 明治神社誌料 |