高椅神社
たかさきじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】高椅神社 下総国 結城郡鎮座

   【現社名】高椅神社
   【住所】栃木県小山市高椅 702
       北緯36度20分14秒,東経139度53分31秒
   【祭神】磐鹿六雁命 国常立尊
       (合祀)木花開耶姫命 経津主神 高おか神 火産靈命 豊受比売神

       元来の主神は磐鹿六雁命であろう

   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】景行天皇41年創祀
       天武天皇12年(684年)高橋朝臣氏祖を祀り高椅神社と尊称
       長元2年(1029年)「日本一社禁鯉宮」の勅願
       建久4年(1193)造営
       結城合戦(1441)で社殿大破
       天正13年(1585)結城晴朝が改築
       明治5年郷社
       同10年7月県社

   【関係氏族】高橋氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高橋明神」と称していた
   【公式HP】 高椅神社
   【社殿】本殿流造
       祝詞殿、拝殿、随神門(楼門)、神樂殿、社務所、参拝人休憩所

   【境内社】

社伝によると、景行天皇41年(西暦111年)、日本武尊が東征の際に当地で国常立尊・天鏡尊・天萬尊を勧請し、戦勝を祈願したのが起源である。景行天皇が、日本武尊の東征の戦跡を巡視された際、膳臣であった磐鹿六雁命は老齢のため帝の許しを得てこの地に留まった。 天武天皇12年(西暦684年)、当地を支配した磐鹿六雁命の末裔高橋氏が高橋朝臣の姓を授けられ、その年、当社に祖神・磐鹿六雁命を合祀して高椅神社と称した。
高橋氏の子孫が、いつの頃にか、先祖にゆかりの深い房総方面へ下り、結城郡に定住し、氏祖磐鹿六雁命を奉祀したと考えられる。
「禁鯉の宮」伝説で知られ、氏子地域の高椅・福良では、いまも鯉を食べず、鯉のぼりも上げない。


由緒

当社の創立は、景行天皇の41年、日本武尊が御東征の折、現在の白旗丘(当社北方約1Km)に御旗を立てられ、国常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
その後、天武天皇の12年(684年)祭神の後裔高橋朝臣が氏祖神磐鹿六雁命を合祀して、高椅神社と尊称するに至った。
延喜式の神名帳(927年)に登載されている古社である。
磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の一人である大彦命の御孫に当られる御方で、景行天皇が、御皇子日本武尊の御東征の戦跡を御巡視なされた際、膳臣としてお供をなされ当地まで来られたが、老令のためお許しを得てこの地にとどまり、以後代代豪族としてこの地方を支配した。
天武天皇の12年、朝廷より高橋朝臣の姓を賜わり代代高橋朝臣を襲名した。
「高椅」の地名も高橋朝臣よりとったという。
後一条天皇の長元2年(1029年)社域に掘った井戸から大きな鯉が出たため奇異であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、誠に霊異なことと思召され、「日本一社禁鯉宮」の勅願を賜わった。
以来氏子民は、鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁ぜられたが、今日までこの禁を犯す者がなく、鯉を食べないことは勿論、五月節句の鯉のぼりも立てない風習が現存している。
当社が「鯉の明神さま」と親しまれているのは、この由緒によるものである。境内の南端にある神池には、氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。
結城代代の城主の崇敬殊に厚く、政朝、政直、政勝、晴朝、秀康の各城主よりの寄進状、祈願文、修行留等二十余通神納され現存する。 殊に秀康公が、越前福井へ国替になった後も代々例度の代参を欠かすことがなく、明治維新まで続けられた。
明治5年郷社となり、同10年7月県社となる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




高椅神社

当社の創立は、景行天皇41年(西暦111年)、日本武尊が御東征の折、当地に御旗を立てられ、国常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
 その後、天武天皇の12年(684)御祭神の後裔高橋朝臣が神社を建て、前記の三柱の神に氏祖神磐鹿六雁命を合わせ鎮座し、高椅神社と尊称するに至った。延喜式の神明帳に登載されている古社である。
 磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の1人である大彦命の御孫に当たられるお方で、景行天皇が皇子日本武尊の東征の戦跡を巡視なされた際、膳臣(かしわでのおみ)として当地までお供をなされたが、老齢のためお許しを得てこの地に留まり、以後代々豪族としてこの地方を支配した。
 天武天皇の12年、朝廷より「高橋朝臣」を賜り代々これを襲名した。「高椅」の地名もこれよりとったという。
 後一條天皇の長元2年(1029)社域に井戸を掘ったところ、大きな鯉が出たため奇異であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、まことに霊異な事と思し召され、「日本一社禁鯉宮」の勅額を賜った。以来氏子民は鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁じられたが、今日までこれを侵す者なく、鯉を食べないことは勿論、5月の鯉のぼりも立てない風習が現存している。当社が「鯉の明神さま」と親しまれているのは、この由緒によるもので、境内の南端にある神池には、氏子・崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。
 結城代々の城主の崇敬殊に厚く、政朝・正直・正勝・晴朝・秀康の各城主よりの寄進状・祈願文・修行留等、20余通神納され現存する。殊に秀康公が越前へ国替えになった後も代々例度の代参を欠かすことなく、明治維新まで続けられた。 明治5年郷社となり、同10年県社となる。
 当地は結城合戦(1441)の戦場となったため、社殿は大破、古文書・古器宝物等も破損散乱し、創祀当時の仔細は定かでないが、記録によれば建久4年(1193)社殿の破損甚だしく氏子民の力の及ばぬため、源右府公に愁訴、結城朝光が社殿全部を改造せりと。また、天正13年(1585)結城晴朝が改築せられた際の修行溜の朱印状が現存しており、その後数次にわたって修理を加えつつ現在に至ったものと推考され、特に弊殿、拝殿は文久2年(1862)当時の奉額殿を移築改造したものと伝えられ破損甚だしく修理も限界の状況であったため、平成5年御鎮座1310年ならびに平成改元記念事業として氏子崇敬者の奉賛のもと改築事業に着手、平成8年竣工をみたものである。
 楼門は、天文24年(1555)結城正勝が改修を行い、その後幾度か補修を加えたが破損し、現在の楼門は水野結城家の寄進により、宝暦4年より明和7年(1770)までの16年の歳月を要して完成したものである。大正10年、従来の茅葺きを鉄板葺きにすると共に、彫刻等の彩色をはじめ、建物全体を塗り替えるなどの大修理を行い、次いで昭和58年、現在の銅板葺きとした。昭和42年、小山市指定文化財に指定され、次いで平成7年、栃木県指定文化財の指定を受ける

公式HP



高椅神社縁起

◎鎮座栃木県小山市大字高椅702
◎御祭神
○主祭神 磐鹿六雁命、國常立尊、天鏡尊、天萬尊
○配神 木花咲耶姫神、経津圭神、高竜神、火産霊神、豊受比売神
◎社紋 五七桐
◎由緒
当社の創立は、景行天皇の41年、日本武尊が御東征の折、現在の白旗丘(当社北方約1Km)に御旗を立てられ、國常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
◎御祭日
1月1日 歳旦祭
1月10日 朝的祭 養蚕の豊作を祈願する特殊神事を斎行
2月日 節分祭
2月22日 祈年祭
4月3日 春季例祭
7月31日 大祓式 茅の輪くぐり神事
10月9日 秋季例大祭
太々神楽 (小山市指定民俗文化財)奉納
11月27日 新嘗祭
12月31日 大祓式、古神礼焚上祭
毎月9日月次祭。

社頭掲示板



高椅神社

料理の祖神
延喜式内
高椅神社参拝のしおり
(鯉の明神様)
◎鎮座 栃木県小山市大字高椅702
〇水戸線結城駅より5Km
○東北線小山駅より12Km
◎境内 15,927u
◎御祭神
○主祭神 磐鹿六雁命、國常立尊、天鏡尊、天萬尊
○配神 木花咲耶姫神、経津主神、高竜神、火産霊神、豊受比売神
◎社紋 五七桐
◎由緒
○当社の創立は、景行天皇の41年、日本武尊が御東征の折、現在の白旗丘(当社北方約1Km)に御旗を立てられ国常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
その後、天武天皇の12年(684年)祭神の後裔高橋朝臣が氏祖神磐鹿六雁命を合祀して、高椅神社と尊称するに至った。
延喜式の神名帳(927年)に登載されている古社である。
○磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の一人である大彦命の御孫に当られる御方で、景行天皇が、御皇子日本武尊の御東征の戦跡を御巡視なされた際、膳臣としてお供をなされ当地まで来られたが、老令のためお許しを得てこの地にとどまり、以後代代豪族としてこの地方を支配した。
天武天皇の12年、朝廷より高橋朝臣の姓を賜わり代代高橋朝臣を襲名した。
「高椅」の地名も高橋朝臣よりとったという。
○後一条天皇の長元2年(1029年)社域に掘った井戸から大きな鯉が出たため奇異であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、誠に霊異なことと思召され、「日本一社禁鯉宮」の勅願を賜わった。
以来氏子民は、鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁ぜられたが、今日までこの禁を犯す者がなく、鯉を食べないことは勿論、5月節句の鯉のぼりも立てない風習が現存している。
当社が「鯉の明神さま」と親しまれているのは、この由緒によるものである。境内の南端にある神池には、氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。
○結城代代の城主の崇敬殊に厚く、政朝、政直、政勝、晴朝、秀康の各城主よりの寄進状、祈願文、修行留等二十余通神納され現存する。 殊に秀康公が、越前福井へ国替になった後も代々例度の代参を欠かすことがなく、明治維新まで続けられた。
明治5年郷社となり、同10年7月県社となる。
◎御神徳
○御祭神磐鹿六雁命は、膳臣として宮中の料理を掌る官職に在り、景行天皇東国御巡視に供奉、上総より海路淡水門に渡られた折に、白蛤と堅魚の「膳」を作り献上したところ、天皇痛く賞味し賜いしことは日本書記に見えるところで、日本における料理の始祖神として、また各家庭においては台所の神として、広く調理関係者より崇敬されており、当社はその本宗をなすもので、現在、御分霊が次のように奉斎されておる。
飛騨高椅神社 岐阜県下呂温泉合掌村
恵北高椅神社 岐阜県中津川市夜明けの森
金高椅神社  岐阜市金神社境内
飛騨高山高椅神社 高山市日枝神社境内
○往古より幼児の「虫除け」の神として崇敬され、また、境内に「柿木さま」と崇める柿の古木あり、根元の砂が「疣」とりに霊験あり、常にお礼参りに納める砂の絶えることがない。
◎御社殿
O当地は、結城合戦(1441年)の戦場となったため、社殿は大破、古文書、古器宝物等も破損散乱し、創祀当時の状況は知る由もないが、記録によれば、建久4年(1193年)社殿の破損甚だしく氏子民の力の及ばぬため、源右府公に愁訴、結城朝光が社殿全部を改造せりと。
また、天正13年(1585年)結城晴朝が再建せられた際の修業留の朱印状が現存しており、その後数次に亘って修理を加えつつ現在に至っておるものと思われ、現在の拝殿は文久2年(1862年)当時の奉額殿を改造したものと伝えられる。
○楼門は、天文24年(1555年)結城政勝が改修を行ない、その後幾度か補修を加えたが破損し、現在の楼門は結城家の寄進により、宝暦4年より明和7年(1770年)までの16年の歳月を要して完成したものである。
大正10年従来の茅葺を鉄板葺に改めると共に、彫刻等の彩色をはじめ建物全部を塗替るなどの大修理を実施、次いで昭和58年現在の銅板葺とした。
昭和42年小山市の重要文化財に指定された。
楼門構造
桁行6m30cm、梁間5m15cm、棟高12m40cm、二層楼門、前後唐破風、左右千鳥博風、楼上高欄付、随所に彫刻絵画を装飾す、前面に左右大臣像を安置
◎御祭日
1月1日  歳旦祭
1月10日  朝的祭 養蚕の豊作を祈願する特殊神事を斎行
2月日 節分祭
2月22日 祈年祭
4月3日 春季例祭
7月31日 大祓式 茅の輪くぐり神事
10月9日 秋季例大祭
太々神楽 (小山市指定民俗文化財)奉納
11月27日 新嘗祭
12月31日 大祓式、古神礼焚上祭
毎月9日月次祭

由緒書



楼門

結城城主水野氏の寄進による再建とされ、宝暦4年(1754)起工、明和7年(1770)竣工、工事に際しては領内の人夫3900余人が動員されたと伝えられる。
三間一戸の楼門であるが、一階は扉を設けず、正面両脇間には随身をまつる。前後を唐破風とした入母屋造りで、屋根は、かつて茅葺きであったものを現在は銅板葺きに改めている。組物は三手先、二階に切目縁を張り出して高欄をまわす。すべて円柱で、中央の二本のみを通し柱とする。
装飾彫刻も随所に見られ、木鼻を唐獅子の丸彫とするほか、欄間部分や妻飾りに透し彫が施されている。全体的に力強く、安定感もあり、典型的な江戸中期の楼門である。
指定年月日 平成7年8月22日
所在地 小山市大宇高椅702番地
所有者(管理者) 高椅神社
栃木県教育委員会

社頭掲示板



高椅神社

高椅は多加波之と訓べし、和名鈔、(郷名部)高橋、O祭神高橋朝臣祖歟、(地名記に天鏡尊、天満尊といヘり、今從はず、)高橋村に在す、今下野都賀郡に属す、(地名記)例祭月日、○日本紀、景行天皇53年10月、至上総國從海路渡淡水門、於是膳臣遠祖、名磐鹿六雁、以蒲爲手強、白蛤為膾而進之、故美六雁臣之功、而賜膳夫伴部、〇姓氏録、(左京皇別上)高橋朝臣、阿倍朝臣同祖、大稲輿命之後也、景行天皇巡狩東國供献大蛤于時天皇喜其奇美、賜姓膳臣、天淳中原瀛真人天皇(諡天武)12年、改膳臣賜高橋朝臣、
連胤按るに、六雁命の裔東國に在しことは、日本紀、姓氏録、また高橋氏文等に明かなれば、今高橋朝臣の氏社、大和國添上郡高橋神社同体とす、
類社
山城國愛宕郡高橋神社の条見合すべし
社領
当代御朱印高三十石

神社覈録



縣社 高椅神社

祭神 磐鹿六雁命
配祀 天満命 天鏡命
創立年代詳ならず、然れとも、延喜の制式内の小社に列す、即ち延喜式神名帖に、下総国結城郡二座並小とある内の一社にして、今下都賀郎高椅に在りと見え(神社覈録、神祇志料)日本紀云、景行天皇53年10月、至上総国從海路渡淡水門、中略、於是膳臣遠祖、名磐鹿六雁、以蒲為手綴白蛤為膾而進之、故美六雁臣之功、而賜膳夫伴部」と、又姓氏録云、高橋朝臣、阿部朝臣、同祖、中略、景行巡狩東國、供献大蛤、干時天皇喜其奇美、賜姓膳臣、天淳中原瀛真人天皇(諡天武)12年、改膳臣、賜高橋朝臣と見ゆ、故に社記に曰く「景行天皇41年日本武尊駐輦の地、今称白幡丘、社西在于二町徐、同朝53年天皇御柱輦之地、今称宮内探白蛤之沼今称水手涜、皆在社地、嘉祥4年授正六位上、長元2年授從三位、蓋依有大鯉之祥瑞云、建長4年源頼朝献祀田、天文元年結城政勝改供祀田、同24年同氏改造神門、弘治2年同氏修繕神門、元亀3年結城勝朝改供祀田、天正5年結城晴朝改供祀田云」とあり、且結城政膀以来累代の領主崇敬淺からず、結城郡の総社として、祀田及社殿を造修す、慶長6年結城氏越前福井に移封せらると雖も、維新に至るまで当社の大祭には代拝を立て、徳川家光よりも杜領高三十石の朱印状を賜はりたり、又承応年中神主持田若狭京師に上り、井を掘り水を用いんことを許され度き旨を奏上せしと云ふ、是れは鯉魚の祥瑞以来鯉の合火を禁するの令ありしに由るなり、氏子村民旅行などの時、鯉魚煮焼の合火を知らず識らず食し、神の怒に触れたることありしを以て、遂に許可を得たり、今に氏子村民は鯉魚を食せざるは勿諭、他人の本社を崇むる者、鯉魚の奉額をなし、社殿に列ねたる状恰も魚鱗の如しといふ、明治5年郷社に列し、同10年縣社に昇格す社殿は本殿、祝詞殿、拝殿、随神門、神饌所、神楽殿等の数棟より成り、境内5975坪(官有地第一種)を有せり、

明治神社誌料



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