麻賀多神社
まかたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】麻賀多神社 下総国 印播郡鎮座

   【現社名】麻賀多神社
   【住所】千葉県佐倉市鏑木町933番地1
       北緯35度43分9秒,東経140度13分36秒
   【祭神】稚産靈命
   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       天保14年造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 麻賀多神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】

鹿島台に佐倉城(近世佐倉城)が築城されると佐倉城の鎮守神として歴代城主の信仰が厚かった。


由緒

麻賀神社という神社は、当社を始めとしてこの佐倉市内に十一社、隣接する酒々井町二社、富里町二社、八千代市一社、の計十八社をかぞえます。一見多く存在するようですが、これを全国的に見ますと他の地方には見られない珍しい名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけての地方にのみ存在する神社です。
しかしながら今から約1050年ほども前に完成した当時の政令というべき「延喜式」の巻第九、下総の国の項に、この「麻賀多神社」の社名が記載されており、当時すでに中央まで知られていた神社であることがわかります。
麻賀多を「まかた」と称えることについては、あまりにも古い神社なので今では定かでなく従来、徳川時代から現在まで勾玉、麻県(ふさあがた)からとか、或いは神社の存在する地形からとか、その他いくつかの推説や伝えがありますが、この小紙ではそれらを逐一紹介できませんので略します。
筆者はこのことについて次のように考えております。
始めは麻賀多神社(ふさがおおのやしろ)と呼ばれていた。のちにいつのころからか、呼びやすい麻賀多神社(まかたじんじゃ)となった。
麻賀多神社(ふさがおおのやしろ)と呼ばれたとするのは、麻は古くはふさと読み、下総、上総の総(ふさ)と同意語で、この房総の地はふさの国と呼ばれていた。多神社(おおのやしろ)とするのは、わが国の上代の一時期(日本書紀では成務天皇の代)に国、郡が定められ、それぞれにその長官として国造、郡司が任命されたが、国造について今日研究するのに根本資料となる先代舊事本紀(平安時代初期に書かれたと思われる)巻十の「国造本紀」によると印波(今の印旛)の国造には神八井耳命八世孫 伊都許利命が任命されたとある。神谷井耳命(かんやいみみのみこと)は別の名を弥志理都比古命(みしりつこのみこと)といわれ、今の奈良県磯城郡田原本町にある多坐(おおにます)弥志理都比古神社の御祭神で、多臣(おおのおみ)祖神である。したがって、この方の八世の孫である印旛の国造伊都許利命も多氏族であることが知られわが国上代の各氏族は、それぞれに祖先神、崇敬神を祀って共同社会を形づくっていたので、この印旛地方に住んだ伊都許利命を始めとする多氏族は他と同様に適地を選び、氏の神を祀った。したがって、その神社を多神社と呼び、麻の国にあるので麻賀多神社(ふさがおおのやしろ)と称した。とかんがえるからであります。
こうしてはじめは、この佐倉地方に住んだ多氏族の氏の神としておまつりされた当社は、時代が下って徳川時代になり、神社の西方に土井利勝が佐倉城を築き、その城主となってからは、当社はこの地方の氏神さまであるばかりでなく、城の追手門近くに位置する神社なので城地鎮護の神としても代々の城主やその家臣に篤く崇敬され、社殿の度々の造営や神号額、神鏡、絵馬、石灯篭等の奉納がつづきました。現在の御社殿は天保14年、後に幕府の老中首座を務めた藩主堀田正睦公が、それまでのものを新たに建て替えたものです。
佐倉藩の最後の藩主堀田正倫公は境内前面の石垣を築造され、堀田家に伝わった重宝である鎧(県重要文化財)、太刀、家系図等を奉納されております。明治維新後は城跡に陸軍の連隊がおかれ、県内各地から入隊した房総健児が武運の長久を祈りました。
戦争が終えてすでに久しく、平和な現在は安産育児、家運隆昌、諸病諸厄の除去などをお祈りする人々が、いつの世に変わらず社前に見かけられ、あおげば御社殿の上、高くそびえる推定樹齢七、八百年の御神木大銀杏が過ぎた佐倉の昔を今に語りかけ、境内は市民の心の故郷、いこいの場となっております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




麻賀多神社

当社は旧佐倉藩の総鎮守で、古くから「まかたさま」とこの地方の人々に親しまれ、崇敬されてきたお社です。
 麻賀多神社という神社は、当社をはじめとしてこの佐倉市内に11社・隣接する酒々井町2社・成田市2社・富里市2社・八千代市1社を数えます。一見多く存在するようですが、これを全国的に見ますと他の地方には見られない、珍しい名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけての地域にのみ存在する神社です。
 しかしながら今から約1050年程前に完成した政令集「延喜式」の巻第九・下総国の項に、この「麻賀多神社」の社名が記載されており、当時すでに中央にまで知られていた神社である事がわかります。
 その御鎮座は佐倉地方開闢の頃と云われており定かではありません。しかし社名については口伝によると以下のようになっております。
 鎮座している千葉県は古来、麻の産地であり「総国・ふさのくに」の総は麻を表しております。その中にある印旛地方は下総国成立以前は印旛国であり、朝廷より国造(くにのみやつこ)が派遣されておりました。その国造に多一族の伊都許利命が就任してたとの記録が先代舊事本紀に記載されております。その国造が代々祀ってきたのが当社であり、「麻の国で多氏が賀す神の社」と訓読みすることが出来ます。鎮座地の「佐倉 」という地名も「麻の倉」が転じてと言われており、佐倉地方が古代物流の中心的地位を占めていたことが判ります。
 時代が下がり、徳川時代になると神社の西方に土井利勝公が佐倉城を築き、その城主となってからは、当社はこの地方の氏神様であるばかりではなく、城の追手門近くに鎮座する神社なので、城地鎮護・佐倉藩総鎮守の神として代々の城主・家臣に篤く崇敬され、社殿の度々の造営・神号額・神鏡・絵馬等の奉納が続きました。現在の社殿は天保14年、のちに幕府の老中首座を務めた藩主堀田正睦公が新たに建て替えたものです。尚、平成15年に氏子一同の奉賛により大修営が行われ、厳かに正遷座祭が斎行されました。
 明治維新以降は佐倉城趾に陸軍連隊が配置され、県内各地から入隊した房総健児が武運長久を祈願しました。  
 先の大戦よりすでに久しく、現在は安産育児・家内安全・病気平癒などをお祈りする人々がいつの世に変わらず社前に見られ、樹齢800年以上の大銀杏をはじめ古木・大樹に囲まれた境内は氏子・崇敬者の憩いの場となっております。

公式HP



麻賀多神社

麻賀多神社という社名は、今から1050年前の政令というべき「延喜式」の下総の項に、この社名がすでに記載されております。佐倉の総鎮守、産土さまで遠い昔から「まかたさま」とこの地方の人々にしたしまれて崇敬されてきたお社です。徳川時代は佐倉城の大手門近くに位置する神社なので歴代の城主、家臣も城地鎮護の神としてあがめました。現在の御社殿は天保14年藩主堀田正睦公が再建、境内全面の石垣は明治初年に最後の藩主同正倫公が奉納されたものです。

社頭掲示板



麻賀多神社

佐倉の総鎮守で、はじめは上代この地方に移り住んだ多氏族の氏の神としてまつられる。その後、時代が下って慶長年間、神社の西方に佐倉城が築かれてからは城地鎮護の神としても代々の藩主や家臣にあつく崇敬され、社殿の度々の造営や神鏡・太刀などの宝物類の寄進が続いた。現在の社殿は天保14年、幕府老中首座を務めた堀田正睦公の再建になり、社宝の甲冑(紫裾濃胴丸)は、最後の藩主同正倫公が奉納するところである。

千葉県神社名鑑




村社麻賀多神社

鏑木町七峰にあり稚産靈命を祭神とす社殿は九尺四面にして境内九百二十三坪(官有地第一種)あり境内五社を祭る即
一、三峯神社 祭神を伊邪那伎命とす由緒不詳建物は二尺四方なり
二、稲荷神社 蒼稲魂命を祭る由緒不詳建物は三尺四方なり
三、天神社 菅原道真靈を祭る由緒不詳
四、疱瘡神社 大汝少彦名命を祭る由緒不詳
五、子安神社 木花開耶姫命を祭る由緒不詳
以上三、四、五の三社は奥行一間間口二間三尺の建物一棟にまつれり
祠掌は郡司秀綱にして氏子四百五十戸を有し管轄廰まで四里二十五町あり(神社明細帳)新撰佐倉風土記云在佐倉宮小路町佐倉宮小路町新町裏新町中尾余町最上町並木町野狐臺町鏑木村之鎮守

印旛郡誌



麻賀多神社

佐倉町大字鏑木字七峰に在り
同郡同上(印旛郡・舊印旛郡)佐倉町大字鏑木字七峰に在り、境内923坪、雅産靈命を祀る、創建年月詳ならず。社地佐倉城の外郭に接するを以て、世々の城主之を崇敬し、社寶石垣等の寄進あり、社殿頗る壮麗にして古来鏑木村及び佐倉町の内八町(新町・宮小路町・並木町・裏新町・中尾餘町・最上町・弥勒町・野狐臺町)の鎮守たり。明治39年12月幣饌供進指定

稿本千葉縣誌



紫裾濃胴丸

千葉県指定有形文化財
紫裾濃胴丸
昭和29年3月31日指定
この甲冑は、幕末の甲冑師・増田明珍頼母介宗家の折紙(鑑定書)とそれを納める木箱と共に残っている。木箱蓋の墨書より、この甲胃が佐倉藩主・堀田正愛(1799〜1825)の着具で、文化14年(1817)に仕立てられたことがわかる。宗家の折紙には、兜・胴・袖など各部が明珍家の一族によって作られたことが記されている。また他に、明冶4年(1871)最後の佐倉藩主・堀田正倫(1851〜1911)が、この甲冑を奉納したことを示す書状も残っている。全体を紫色が下にいくほど濃くなる紫裾濃威に統一し、裾金物などに「堅木瓜」をはじめとする堀田氏の家紋を配している兜には大鍬形と龍の前立、胴には栴檀板・鳩尾板が付けられるなど、中世の大鎧を擬した部分が多くみられる。これは、江戸時代後期に製作された「復古調」の甲冑の特微であり、時代の流行を取り入れたものとなっている。
千葉県を代表する甲冑としても貴重てあり、佐倉藩主の着具という歴史的価値と併せて重要な資料である。
平成26年7月
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会

社頭掲示板



下総国INDEXへ        TOPページへ

学校DATA