社名は「おいお」と読むと思われるが、「全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」は「ろうび」としているが、これがどこから出たのか不詳。 崇神天皇7年神田を授かり創立という。 中世千葉氏の庇護を受けたが、千葉氏の衰えとともに、当社も衰退していった。 |
匝瑳市指定史跡 式内社 老尾神社 5329平方メートル 平成25年2月21日指定 平安時代の「延喜式」に、香取神宮などに次いで小社「老尾神社」として記載されている。 現在の境内地については、江戸時代の「下総名勝図絵」に絵図として見られ、「延喜式」から続く神社であると由緒が書かれている。 匝瑳郡として式内社は一社であり、後には匝瑳郡の総鎮守となつた記録もあり、歴史的に重要なものである。 平成26年3月 匝瑳市教育委員会 社頭掲示板 |
老尾神社 老尾は於伊哀と訓べし〇祭神国常立尊、朝彦命、(地名記)〇南條庄生尾村に在す、(道場)今生尾大明神と称す、例祭月日 神社覈録 |
郷社 老尾神社 祭神 阿佐比古命 別殿 磐箇男命 磐箇女命 並殿 國常立命 創建年代詳ならず、廷喜式神名帳、匝瑳郡一座に、老尾神社とあるは。蓋、当社なり、國人匝瑳明神と称し、匝瑳一郡の総鎮守たり、伝云ふ、祭神阿佐比古命は、経津主命の御子にして、経津主建御雷の両神、天神の命に依り天降、荒振神を揆平し、天神に復命せんとするの時、御子阿佐比古命を留のて皇孫萬代の護として、此地に鎮座せしめんと。蓋神代の遺跡か但、社説には平城天阜大同年間の勧請とせり、後村上天息正平24年5月、回禄の災に罹り、社殿宝庫悉く灰燼に帰せしが、国司千葉満胤、鏑木胤繁に命じて再建せしめしと、千葉氏代々社領を寄進、神器を納めて崇敬の誠を致せしが、同氏衰ふるに及び、社領を失ひ、漸次頻敗す、明治維新の後、社号を旧に復し、同6年10月郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿、境内は1100坪官有地第一種たり、土地高燥にして遠く九十九里の海を望み、風景頗る宜し。当社祭神に付き。下総國旧事考に匝瑳郡建立者物部小事大連を祀れるにはあらざるかと疑ひし以来、此説に從ふもの甚だ多し、然れとも地名紀は是に異なり、朝彦命并国常立命を祀るとせり、又度曾氏の神名帳考証には「埴安神也、老者称土地壽、尾者雄也、云々」とあり、以上諸説を挙げて後考に備ふ、昏取神宮の末社に匝瑳殿あり所祭、磐筒男磐筒女二神なり、 明治神社誌料 |