寒川神社
さむかわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】寒川神社 下総国 千葉郡鎮座

   【現社名】寒川神社
   【住所】千葉県千葉市中央区寒川町 1-123
       北緯35度35分50秒,東経140度7分14秒
   【祭神】寒川比古命 寒川比賣命 (配祀)天照皇大神
   【例祭】8月21日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       文明十三年(1481)社殿造営
       弘化2年(1845)
       明治41年火災

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「神明宮」と称していた
   【公式HP】 寒川神社
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所

   【境内社】海津見神社・海津見神社・嚴島神社・龍蔵神社・神明神社・白幡神社・道祖神社

古来神明宮・伊勢明神と呼ばれ、伊勢信仰による分祀たる神明社で、天照大神が本来の祭神である。


由緒

下総国寒川郷仲宿(寒川一丁目)に、寒川地域(寒川町一、二、三丁目、港町、長洲一、二丁目、末広一、二、三、四、五丁目、出洲港、神明町、新宿一、二丁目、新田町)の守護神として鎮座まします寒川神社は、寒川比古命、寒川比売命配祀に天照皇太神の御三神を祀り、世に神明様又は伊勢神明様として知られた御神徳のたかい神社であります。徳川家康も拾石の社領を奉納して崇奉の誠を捧げました。 往昔海上往来の船舶が当社の沖合にかかると、礼帆と称して帆をなかば下げて航行し、又社前を馬上にて通行する者は、武家平民を問わず下馬して敬拝をするを常としたと伝えらる、霊験のあらたかな鎮守様であります。王政復古により、明治と年号が改められたその元年に寒川神社と改称されたのが現今の寒川神社であります。千葉市の急速な発展に伴い、神社も氏子崇敬者約六千名を数え、歴代の宮司は身心を打込んで日夜その全員の家内安全、商売繁盛を祈祷して居ります。
神社として記したいものは御神殿奥深く祀られている獅子頭のことです。これは、桐材を使用、添塗刻様式で法隆寺にあるものに類似して居り鎌倉時代の作と伝えられて居る御神体であります。伝承によれば「あるとき漁師が沖に舟を漕出して投入れた網に、不思議な獅子頭が掛かったので持ち帰って大切に安置していたところ、之を私蔵すると恐ろしいたたりがあると古老達に諭され、鎮守の神明様へ奉納してお祀りすることにしました。それより神明様の沖合を帆をあげて航行する船舶の覆没するもの相次ぐようになりました。そこで村の古老達が相談をして、之は獅子頭のたたりであろうと早速神殿の下に石室を築造して封じ埋めたところ、それよりは珍事災難は全くなくなったといいます」これが現在の御神体の獅子頭であります。
寒川神社の御神殿は、文明13辛丑年9月20日(今から487年前)大破していたのを再建しましたが、その後弘化2乙巳年10月27日、夜の大火のため御神体を始め僅かな御神宝を残して尽く灰燼と化しました。
爾後55年ぶりの明治33年に漸くにして復元なり、仮御神殿(現今の新田町の道祖神社の御神殿とも伝えられる)から御本殿へ移られましたが、明治41年2月22日、夜の寒川の大火災で再び炎上しました。昭和2年当時の役員諸氏の献身的努力と氏子崇敬者の奉賛とにより、三万数千円と言う巨額な浄財を以て約一ケ年の歳月を費して再建されたのが現在の御神殿及び社務所であります。
このような由緒の深い霊験のあらたかな御宮を鎮守様として信仰の出来る地域の人々は幸であり、又おのずから崇敬の念がますますたかまってくることが自覚されます。然るに寒川地域に或いは未だ氏神様を知らない方もあるかと思われますが、明治百年を記念とし敬神の念を一段とたかめ、家内安全・交通安全のため切ないときの神頼みではなくして、転ばぬ先の杖と言う古諺の如く常日頃大いに寒川神社を信仰して、鎮守様の御加護をいただき更にお互いの幸福をたかめることにつとめましょう。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




寒川神社記

鎮座地 千葉市寒川仲ノ宿
(千葉市寒川町一丁目1212番地)
(延喜式内社並小)
一祭神
寒川比古命
寒川比売命
相殿
天照皇大御神
御鎮座由来不詳
伊勢の国、国神大水上神の御子にして倭姫命の御祝ひ定め給ひし牟弥乃神社の祭神と同一神なり御祭神の御事蹟は弘化2年及明治41年両度の火災に類焼の為め古記類皆鳥有に帰し詳かならざれ共古来より厄難払ひの大神とし知られ当国に座して御親命の御功績を受け継がれ給ひて各種産業の開発に就ての御威徳を遠近に布き給ひしならん昔時は当社沿岸航行の船舶は礼帆を行ひ社前を騎馬にて通行すれば必ず崇りありとて下馬して敬慶の意を表せりと古記に残されたり。
一宝物
獅子頭裏面に朱書して
「依為大破神明ノ獅子面並宮殿奉建立干時文明十三年九月二十日(後土御門天皇二、三四年)
本旦那 民部大夫政吉
未旦那 原次郎五郎平胤次」

社頭掲示板



寒川神社

當社の本來の名称は、前述のやうに神明宮であるが、たまたま一ノ鳥居をくゞつたすぐ右手に、もと掘貫井があり、ゆたかな湧泉があつた。(道路工事があつてから水が出なくなり、昭和30年ころ埋めてしまつたといふ。)これに因んで名つけられた寒川村の地内に當社があり、また二宮神社はあるが、式内「寒川神社」を称する神社がなかつたので、明治元年社名を寒川神社と改めるとともに、相摸の寒川神社の祭神二柱をそのまま採つて寒川比古命・寒川比売命を増祀したものであり、本來の祭神と主客顛倒したのである。

式内社調査報告



寒川神社

度重なる火災で古記録がすべて焼失したため、残念ながら、御創建の年代は明らかではありません。現存する最も古い史料としては、御神宝の獅子頭に文明十三年(1481年)に社殿と獅子頭を修復した旨の銘がありますので、創建はこれ以前であると考えられます。
また、延喜年間(905年頃)に編纂された延喜式神名帳「注1」には、下総國千葉郡に「寒川神社」の記載が見えますので、これが当社であるとすれば、創建年代はさらに遡ることとなります。(これについては、歴史学者や郷土史家等が様々に考察を行っておりますので、詳しくは「付録」の項でご紹介しまず。)
当社は、古くから海の神として崇敬され盛んに信仰を集めました。当社の沖を船で航行するものは「礼帆(れいはん)」といって帆を半ばまで下ろして敬意を示し、社前を馬で通行するものは必ず馬を下りて下馬の礼をとったと伝えられております。
当社の霊験あらたかさを伝える話として、獅子頭に関する言い伝えがあります。その昔、漁師の網に獅子頭がかかり、これを祀ったところ沖を航行する船の沈没が相次ぎました。これは獅子頭の祟りであろうと、当社社殿の下に石室を作って封じ込めたところ、船の事故がぴたりと止んだというものです。この獅子頭は御神宝として今も当社に所蔵されています。
旧寒川村は佐倉藩領で、佐倉藩の年貢米を江戸に廻送するための御用港として、また一大漁業基地として、隣接する千葉町(現在の千葉市街)にも勝るとも劣らない賑いをみせました。寒川村領は現在の氏子町会となっている11ヶ町の他に、多数の飛び地を有しており、寒川神社は、その総鎮守として広く崇敬されました。徳川幕府からは社領として十石を寄進されました。
時代が下って明治に入ると当社は村社に列しましたが、寒川に魚市場が設置されたこともあり、千葉や寒川の魚問屋を中心とした旦那衆から盛んに信仰されました。神社に残る当時の大絵馬には魚問屋が屋号をつらね、寒川神社が海の神として篤く崇敬されていたことを伺い知ることができます。
この時代の寒川の象徴は、なんといっても神輿の「御浜下り」でした。白砂青松の出洲海岸に立つ大鳥居から、立ち並ぶ提灯の灯かりにあやしく輝く神輿が海中に渡御する様は、まさに圧巻の一語であったといいます。そして、この「御浜下り」こそが、海の神・寒川神社の神威を示し、漁師町寒川に生きる人々の誇りであったのです。
注1:延喜式神名帳
式とは律令国家の基本法規である律令格式の一つで、延喜式とは延喜年間に編纂された律令の施行細則です。古来は神々をお祀りすることが政治そのものでしたので、各国の国司がどの神社に参拝すべきかが定められていました。この延喜式に記載されている神社を「式内社」または「式社」といい、その神社が古くから祀られている由緒正しい神社であることのひとつの目安となっています。 下総國の項では11社が記載されており、香取郡の香取神宮の次に千葉郡寒川神社の記載があります。
■寒川神社をめぐる式社論
注※
式社論については様々な議論がされておりますが、地域の信仰の対象である神社に学問的な批判を加える事は必要なことですが、ともすれば地域の崇敬者の心情を害してしまうことがあることを充分に考慮することもまた必要です。本稿では、寒川神社の関係者であるという立場と学問的な記述を峻別するために、以下のような区別を設けました。
・出典を引用した場合の記載は緑色で記述します。
・筆者の個人的な意見は青色で記述します。
・その他の一般的記述や、通説として各書に掲載されている内容は黒色で示します。
また、漢字の表記についてはできる限り原典どおりの記載を心がけますが、パソコンによる表記の都合上、旧漢字は、常用漢字または平仮名で表記させていただきます。

式内社とは
古来は神々をお祀りすることが政治そのものでした。そこで、国家の基本法規である「律」(刑法)、「令」(行政法)、「格」(補足)、「式」(施行細則)のうちの「式」に、国司が祭祀すべき神社が国毎に細かく定められました。延喜五年(905年)〜延長五年(927年)にわたって編纂された「延喜式」の巻9、10には、全国の官社2861社が国郡別に記載されています。その「延喜式神名帳」に記載された神社を「式内社」または「式社」と呼び、その神社が古くから祀られている由緒正しい神社であることのひとつの目安となっています。
千葉市を含む千葉県北部は、当時でいう「下総国」に属しておりましたが、この下総国では、11社が記載されています。
下總國十一座 大一座小十座
香取郡 一座 大 香取神宮 名神大 月次新嘗
千葉郡 二座 並小 寒川神社 蘇賀比盗_社
匝瑳郡 一座 小 老尾神社
印播郡 一座 小 麻賀多神社
結城郡 二座 小 高椅神社 健田神社
岡田郡 一座 小 桑原神社
葛飾郡 二座 並小 茂侶神社 意富比神社
相馬郡 一座 小 みつち神社
しかし、式内社の中にも時代が経つにつれて、荒廃したり、祭神や社名が変わったり、あるいは同名の神社が複数できてしまったりすることも多く、延喜式所載の神社が現存のどの神社のことを指しているのかを特定することが難しい場合が多ヽあります。このように、一つの式内社に対して複数の候補が存在している場合、その神社を「論社」と呼びます。
現在の千葉市は概ね古代の千葉郡の中に含まれていましたが、その千葉郡に記載されている2社のうち、「蘇賀比盗_社」は千葉市蘇我町鎮座の「蘇我比盗_社」であることにほぼ異論がありませんが、「寒川神社」については論社が2社存在します。その2社とは、一方がこのホームページで紹介している千葉市中央区寒川町鎮座の寒川神社で、もう一方が船橋市三山鎮座の二宮神社です。以下、その内容について紹介します。

おもな式社論
では、現在のまでの式社論の変遷をご紹介します。
まず、江戸時代ですが、この時期には主に「寒川村にある」と考えられていたようです。
『香取私記』、『佐倉風土記』、『神名帳考証』には、ともに「寒川村にある」と書かれています。しかし、個々にみてみると『香取私記』、『佐倉風土記』ではその論拠が明示されておらずただ「寒川村にある」とのみ書かれているだけです。伴信友(*1)の『神名帳考証』も知人からの伝聞という形で記載されています。さらに『神名帳考証』では「寒川村にある」と言いつつも、「寒川村にあるといっても、現在の寒川神社の方ではなく現神明町の神明神社であろう」としていて本末転倒(*2)になってしまっています。
よって、これらの説では「寒川村にある」と述べているものの、その根拠が不明快なため現在では有力な見解とはなっていません。
(*1)伴信友:[1775〜1846]江戸後期の国学者。若狭小浜藩士。
(*2)神明神社は古来から「結城神明」と称されたように、その性格は単なる神明社(=天照大御神をお祀りするために伊勢神宮から勧請された神社)であると考えられます。式内社は、はるか上代からその土地に鎮座している神社であることが一般的ですので、比較的創建の新しい伊勢神宮からさらに御魂分けされた神明社というのは、通常は式内社ほどの古社であるとは考えられません。さらに、『神名帳考証』にいうように、現寒川神社よりも現神明神社の方が古いということになれば、現寒川神社が式内社である可能性はなくなります。
・『香取私記』
「寒川村にあり」
・『佐倉風土記』
「寒川村にあり」
・伴信友『神名帳考証』
「寒川村は天正年間までは結城と称せし所にて、千葉郡寒川村の属邑寒川新田というところに古社あり。今は神明と称すれども式内寒川神社なり。村人に中にて鎌取という役を選定して神事に預からしむ。神体は所謂御幣にして祭日には新たに調えて旧物は海の沖に持ち出して流すとなり。寒川の本邑にも神明社あれど、そは新田なるを後に勧請して祀れるなりとぞ」
(意訳)「いまの寒川村は天正年間(1573年〜1592年/織豊時代)までは結城と呼ばれていた所で、寒川村に付属している寒川新田というところに古社がある。いまは神明社と呼ばれているが、それが式内寒川神社である。(中略)寒川の本村落の方にも神明社があるけど、それは新田にある神明社をあとから御魂分けして移してきたものだということだ。」

上の諸説に次いで登場したのが清宮秀堅(*2)の『下總國旧事考』です。その中の『下總式社考』において、式内寒川神社は現在の二宮神社であろうとの述べています。寒川神社に関する式社論を初めて論理的に考証したという点で画期的といえます。これ以降の説は、概ねこの説を引用して二宮神社説の妥当性を述べており、それが現在に至るまで支持されて、一般的な見解となっています。
・清宮秀堅『下總式社考』
「寒川神社 小 千葉郡三山村にある二宮神社なるべし(三山は和名抄(*3)の山家郷の内と見ゆ)。社領十石(天正十九年辛卯十一月別当祠官分領せり)。社の伝は 素盞鳴尊・奇稲田姫命を祭れりと云。毎年八月十三日湯立の神楽あり。此日祭日を卜い定め九月の内良日を撰み神事を行い丑未の年の七箇年目には取分て大祭事ありと云。祠官三山氏(他に社家廿二人あり)。別当を神宮寺と云(新義真言宗吉橋村常福寺に属す)。氏子は千葉郡の内二十一ヶ村なり。

公式HP



寒川神社

一説には延喜式内社の寒川神社と言われ、寒川地区の総鎮守で、古く神明神社または伊勢明神と呼ばれていました。天照大神を主神に寒川比古命、寒川比賈命を脇神にまつり、天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を寒川神社に改めました。
昔は、海上往来の船が同社沖にさしかかると札帆といい帆を半ば下げて航行し、また社前を馬上で通行する者は下馬して敬意を表したと伝えられる。昭和39年の出津海岸の埋立てまでは、8月20日の祭礼に海岸の大鳥居から神輿が勇壮に海に入る海上渡御の古式(お浜下り)が行われていました。
当社はたびたび火災にあい多くの宝物を失いましたが、神鏡・神幣。獅子頭は焼失を免れ現在に伝えられています。特に獅子頭は、桐材漆塗で刻法は力強く、全体に古雅であり、御神体として祀られています。また頭の内側に文明13年(1481)の修理朱墨銘があるが、様式が法隆寺伝わるものと類似している所があり、製作年代を鎌倉時代とする説があります。(

社頭掲示板



寒川神社

同町(千葉郡千葉町)大字寒川字仲宿に在り。境内252坪、天照皇太神、寒川比古命、寒川比賈命を合祀す、元神明社と称し、近郷舊二十一ヵ村の氏神たり。或は云ふ、延喜式載する所の寒川神社これなりと。天正19年11月徳川家康社領十石を寄附す。明治元年社号を改む。境内末社五座あり、社殿壮麗ならずと雖も、古雅なりしが明治41年2月焼失、大正元年8月假殿を建築す。明治39年12月幣饌料供進指定。

稿本千葉県誌



寒川神社

寒川は佐牟加波と訓べし〇祭神誉田別尊(地名記)〇寒川村に在す、(同上)例祭 月日、
考証に、寒川比女命と云り、こは寒川の文字に拠るのみにして、其實は知れがたし、猶尋ぬべし、O伴信友去、寒川村の属邑寒川新田と云所に古社あり、今は神明と称すれども塞川神社也、神体は御幣にて、祭日に新に調へて、旧物は海の浜に持出て流す也、此神霊験著き事常にて、無礼をなす事あれば、其崇を受て病出て死に至るもの多し、早く悟りて祈謝すれば病治る事あれど、其語る事遅く病深くなれば、治する事なし、同藩の医丹羽誠軒、寒川に久しく客居して見聞する趣也、又寒川の本村に、神明宮あれど、そは新田なるを後に勧請し祭る処といへり、

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