二宮神社
にのみやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】寒川神社 下総国 千葉郡鎮座
   【延喜式神名帳】茂侶神社 下総国 葛飾郡鎮座

   【現社名】二宮神社
   【住所】千葉県船橋市三山 5-20-1
       北緯35度42分6秒,東経140度3分8秒
   【祭神】速須佐之男命 (配祀)稻田比売命 大国主命 藤原時平 大雀命 誉田別命
   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】弘仁年間(812-820)の創祀
       治承4年(1180)左大臣藤原時平を本社の相殿に合祀
       天正19年(1591)11月徳川家康朱印地10石
       明治5年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座する

   【祭祀対象】本来泉を祀る
   【祭祀】江戸時代は「三山明神」と称していた
   【公式HP】 二宮神社
   【社殿】本殿流造
       幣殿、拝殿、神樂殿、社務所

   【境内社】
   【別当】神宮寺(新義眞言宗豊山派)が、当社の東に、道路を隔てて今も存する。

「寒川」は「清冷な泉流」の意であり、
台地の崖の下、参道の右手に泉が涌いている。今は水量は少いが、その清泉は西南へ流れ、西方の池へ入つている。この水流域を.「ミタラシ」といつているが、この清泉流が「サムカハ」である。
元来の祭神は、寒川神、すなわち前記清泉の霊一座で、農耕に関係深い水神であつたと考えられる。
【茂侶神社の論社】当社は「御山」という台地上にあり、背後に深い森があったと伝えられている。このため、江戸時代には、当社が式内社「茂侶神社」ではないかと考えられていたらしい。当社が、天明元年(1781)に吉田家に提出した文書に「二宮明神の義は茂侶神社と申す。往古より鎮座・・・」とあり、江戸時代末期まで当社が式内社「茂侶神社」と思われていたようである。


由緒

一、由緒
一.当社の儀は弘仁年間嵯峨天皇の勅創に係り、古来寒川神社二宮大明神と聯称す。往昔より近郷二十三ケ村の総鎮守にして、丑未七年目毎に二宮神社外八神社の神輿を会し大祭を執行す。
二.治承4年、藤原師経当国へ左遷の際、同人及神官倶々協議して左大臣藤原時平公を本社の相殿に合祀す。
三.慶長年中、東照宮上総国東金へ御成りの砌り、御参詣の際御墨印寄せられ、二代将軍秀忠公より御朱印御寄附、三代将軍家光公より御朱印を以て下総国千葉郡三山村に於て御神領拾石御奉献。其の後貞享元年3月11日、東照宮より四代将軍家綱公まで神官宅火災の砌り御朱印焼失に付其の砌り寺社奉行へ御訴へ申上げ御吟味相済、翌2年6月14日、五代将軍綱吉公より御朱印前々の通り御社領御寄附あり。(現在の御社殿は安永年間再造営せるものなり)
四.明治43年12月16日、千葉郡二宮村三山字北ノ海道199番、無格社若宮八幡神社(大雀命)、同所字西ノ庭44、二宮神社摂社阿波八幡神社(誉田別尊)御本社へ合祀す。
一、大祭起源及沿革
当社は今を去る500有余年前、馬加村(千葉市馬加町)の城主陸奥守康胤奥方懐妊、十一ケ月到るも何等出産の模様なきをいたく憂い、三山村二宮神社、畑村子安神社、馬加村子守神社、武石村三代王神社の各神主に命じて馬加村の磯部に地を相会し安産御祈祷の祭禮たる産屋の古式を執行せしむ。(磯出祭は是なり)さる程に奥方安産あり然も男子御出生の事とて康胤初め家臣領民等殊の外喜び此神徳に報いんと総社二宮神社二宮安産御禮の大祭を執行する様領内村々に告げ知らせ、康胤は此度出生せる若殿を伴ひ家臣一同を引連れいとも麗やかなる大祭を挙げたり。(是れを安産御禮大祭と云ふ)是ぞ三山大祭の濫觴にして後年此二つの祭を一つに合せて同時に式事を執行する様になりたり。此処に「三山の祭後が先」と云ふ伝説生じたり。是より庶人亦其霊徳に浴せんと安産の祈願をなす者多きを加へ今や関東一の御産の神として有名となり、この先例を丑年未年の七ケ年毎に踏襲し本社の外八神社、三山・二宮神社、畑・子安神社、馬加・子守神社、武石・三代王神社、久々田・菊田神社、高津・高津比盗_社、実籾・大原神社、大和田・時平神社、古和釜・八王子神社の神輿三山神揃場に集ひ其れより行列を以て御本社に参進し大祭を執行す。当夜は馬加村磯部に四基の神輿相会し安産御祈祷の式事を行ふ。この夜畑村に必ず男女の出産ありて後七年目の大祭には稚児となり参列する。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




市指定文化財(民俗)

指定年月 昭和55年10月23日
管理者 二宮神社
斉藤その女奉納句額
拝殿内正面に掲げられている句額は、文久3年に、田木の井の鉄賀、正伯(薬園台)の林中、大久保の雨□、竜尾園香城と江戸の宗匠孤山堂卓郎など船橋近在の俳人達が主催者となり。俳人斉藤その女の長寿を祝って、その女の氏神である二宮神社に俳句の額を奉納したものである。句額の奉納者は、二宮神社の注連下二十一ヶ村の村民や江戸、市川の者等80名である。
句額は、天地が107cm、左右が366cmの欅の一枚板であり、江戸の宮大工野川法眼平朋郷が装飾し彫刻した文久3年の年月が入った立派なものである。
おそらく千葉県内では、これだけぜい沢な句額は他に見ることができないだろうと思われる。

社頭掲示板



二宮神社

当社の創立は、弘仁年間(810年-823年)で、嵯峨天皇の御勅創によるものであると伝えられています。
また、延喜5年(905年)に編纂された「延喜式」の「神名帳」にある「千葉郡二座(並小)」の一座である「寒川神社」であったといわれています。二宮神社と呼ばれるようになった正確な年代はわかっていませんが、乾元2年(1302年)の鐘には「二宮社」と刻まれていることから、鎌倉時代には既に呼称されていたことがわかっています。
こうして古来より、近郷23ヶ村の総鎮守として広く人々の信仰をあつめてきました。
社殿 拝殿
現在の社殿は安永年間(1772年-81年)に再建されたものです。銅板葺の屋根は、本殿が大正11年(1922年)10月、拝殿が大正14年(1925年)に茅葺屋根から葺き替えられました。社殿の平面形式は江戸時代に流行した権現造ですが、拝殿から幣殿にいたる床面の高さは同一になっています。また、軒の組物および腰組も当時の正規の宮大工の手法によって意匠と造作がなされています。
参道
正面の鳥居から参拝すると参道はいったん低くなり、谷を横断して進むように作られています。谷の底部には小川が流れており、その水脈は習志野市の津田沼に鎮座している菊田神社境内にある池へとつながっていると言われています。谷底を直線に進むと石段を登りおわる頃に拝殿の向拝の唐破風が見えてくるようになっており、大きく雄大な唐破風の曲線、そして雄渾な彫刻をゆっくりと鑑賞できるようにと大工棟梁のデザインの工夫が凝らされています。

公式HP



二宮神社

同郡(千葉郡)二宮村大字三山字西庭に在り、境内三千八百十坪、素盞嗚尊・稲田姫命・大國主命を合祀す。社傳に云ふ、延喜式載する所の寒川神社にしてもと三山明神と稱し近郷二十三村の總鎮守たりと。天正19年11月徳川家康社領十石を寄附す、明治7年1月郷社に列せられ本稱に改む。社前碑石あり延喜式内寒川神社と刻す、境内末社四座あり。明治39年12月弊饌料供進指定

稿本千葉県誌



二宮神社

平安時代、十世紀前半に成立した「延喜式」の「神名帳」に見える「寒川神社」を、当社の前身とする説が古くからある(清宮秀堅「下総式社考」他)が異説もある。文献以外の資料としては、成田市土室祥鳳院の梵鐘が上げられる。これは鎌倉後期の乾元2年(1303)に鋳造されたもので、「大日本國総州二宮社壇」「當社務大□□沙弥行観」「源範治」等の銘文がある(「千葉縣史料 金石編」二)。この「二宮社壇」が、当社のことをさすものかどうか確定はできないが、その可能性は高いといえよう。天正19年に至り、徳川家康から一〇石の社領を寄進され、二代将軍以降は朱印地として将軍の代替りごとに朱印状を授与されて保障された(「寛文朱印留」下による)。ただし、その内五石は神宮寺に分けられていたという。現在の社殿は安永4年(1775)の建立である。

船橋市史



二宮神社

当社の創建は、約1200年前の弘仁年間(810-823)に、嵯峨天皇の御勅創によるものと伝えられています。延喜5年(905)に編纂された『延喜式』の『神名帳』には、「千葉郡二座(並小)」の一座に「寒川神社」とあり、これが当社であったといわれています。治承4年(1180)には藤原時平公の後裔一族が三山の地に移住し、時平公を合祀いたしました。
 現在の社名となった正確な年代は不明ですが、乾元2年(1303)に鋳造された鐘には「二宮社」と刻まれていることから、鎌倉時代にはすでに「二宮神社」と呼称されていたようです。
 室町時代を起源にする七年に一度行われる七年大祭は近隣の九社が寄り合って斎行される古式ゆかしい祭事です。徳川将軍家からも崇敬篤く、神領などの寄進がございました。古来より、近郷二十三ヶ村の総鎮守として広く人々の信仰をあつめ、現在も変わらず人々をお守りしています。

パンフレット



二宮神社の神楽

市指定文化財(無形民俗)
二宮神社の神楽
平成7(1995)年6月26日指定
伝承者 二宮神社神楽はやし連
二宮神社は創建を弘仁年間(810〜824)にさかのぼるといわれる古社で、船橋市東部の代表的な神社である。
二宮神社の神楽がいつ頃から伝えられているのかはよくわかっていないが、古い装束のなかには、「寛政11未歳」(1799)「天保8酉年」(1837)と墨で記されているものも保存されている。
神楽は、1月15日と10月16日(例祭)に境内の神楽殿で、節分祭には社殿で演じられる、また10月14日には楽園台神明神社でも行われる、神來はやし連を構成しているのは地元の三山の人達である。
現在、伝えられている曲目は次の16座である、(名称は通弥で記している、)
@みこ舞、A翁舞、B猿田舞、C神明舞、D大弧舞、Eうずめ舞、Fひりこ舞、Gおかめ舞、H宝剣打ち、Iかとり舞、J源三位(ぬえ退治)、K玉取舞、L山神舞(餅なげ)、M大黒舞、N獅子舞、O鬼の舞(大黒舞、獅子舞、鬼の舞は、節分祭でのみ演じられる、)
このうち、翁舞・猿田舞・神明舞は三座と呼ばれ特に重要であるとされ、また、かとり舞と源三位(ぬえ退治)は志内ではここだけに伝わる曲目である、ひりこ舞では道化役の蛸が登場して観客の笑いを誘う、使用する楽器は、おおなり(鋲打太鼓)、鼓(締太鼓)、笛、しゃんぎり(チャッバ)で、各1人が演奏する。
二宮神社の神楽は、関東地方に分布する十二座神楽に属するものであるが、独自の工夫を加え、神社に奉納する神事という厳粛な面と祭礼における娯楽性という面をあわせもつ特色ある神楽である
平成29年3月 船橋市教育委員会

社頭掲示板



郷社 二宮神社

祭神 速須佐之男命 稻田比売命
大國主命 藤原時平
創立年代詳ならず、但伝云ふ、安徳天皇治承5年、藤原師経、当国へ左遷せられし際、神臓と相議り、藤原時平を相殿に合祀せりと、二宮明神の號宝暦高帳等に見え、往古以来近鄭二十三ケ村の総鎮守たり、霊元天皇貞享元年3月災上、社殿は勿論古記神宝、悉く烏有に帰せる為め由緒の詳細を知るに由なきは遺憾とすべし、明治6年12月郷社に列す、社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神樂殿、水舎等あり、境内は4224坪(官有地第一種)あり。 神祇志料に「寒川神社、今三山村に在り、三山明神といふ、蓋是也、(按一説に塞川村新田なる神明社を本社也と云へと、此地は天正以前結城と云し地なれば、信しかたし、相模寒川神社一宮村宮山にありて、其近き処に神揃山ど云あり、本社も三山村にありて、村中に神揃場と云ふ処あるなど自ら由縁ありてきこゆ、姑く附て考に備ふ)凡8月13日湯立神楽を行ふ、(下総式社考)」とありて、本社を以て式内の寒川神社となせり、故に又下総旧事考に「三山は宮山の訛にて、二宮は即寒川社なり、然るに天明年中、神主より本社には式内茂侶神社なりと言出でしことあり、誤れり」とも見えたり、然るに神社覈録に云く、寒川神社、祭神誉田別尊(地名記)O寒川村に在す、考証に、寒川比女命と云り、こは寒川の文字に拠るのみにして、其実は知れがたし、猶尋ぬべし、○伴信友云、寒川村の属邑塞川新田と云所に古社あり、今は神明と称すれど寒川神社也、神体は御幣にて、祭日に新に調へて、旧物は海の浜に持出て流す也、此神霊験著き事常にて、無礼をなす事あれが其崇を受けて、云々、又寒川の本村にも神明宮あれど、そは新田なるを後に勧請し祭ると云り、」とひへり、姑く両説を揚て後考を侯つベし、

明治神社誌料



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