筑前宗像神社の分霊を遷したと伝えている。思川西岸の平地に鎮座している。 |
由緒 当社の主祭神、田心姫命(水運の神)をいつ頃勧請したか、未だ明らかではないが、社殿の再建は、平城天皇の御代、大同元年(西暦806)10月28日である。 醍醐天皇の御代に、延喜式内に列したともいわれたが、詳らかではない。 天慶2年、藤原秀郷は、平将門追討に際し当社に祈願し、戦勝の砌、金百貫文を奉納した。 源頼朝も、文治3年、小山政光の妻、寒川尼を当地方の地頭職に任じ、当社に領地を寄進した。以来、尼公をはじめ、歴代の網戸城主の崇敬も篤く、小山家の定紋「左二ツ巴」を、当社の神紋としている。 この頃、藤原一族の祖神、天児屋根命(人神の間をとりもつ神)を併せて祀った。 江戸時代、後光明天皇の頃より、寛政・文政にかけて、社格問題その他で揺動し、かつ曲折した。 かくてその後、古河藩の治下にあっては、在郷の篤志家等が、神官を輔翼して、当社を護持し、維新を迎えた。 明治新政府は、国家神道の観点から、神社の再編成をなしたが、当地方は大幅に遅れた。 大正3年5月20日、渡良瀬川改修工事の一環として堤防拡幅がなされ、当社は、本宿二四四八番地の千古の杜より、旧城内に遷宮した。 この年の8月19日、沼ノ台の浅間神社、庚申塚の皇宮神社、高揚の熊野神社、折本の奥瀬神社、本宿の八坂神社、大境の神明宮を合祀し、既存の水神宮、天満宮、千形神社、権兵衛稲荷神社、三峯神社等と共に境内神社とした。 神事は、陰暦2月15日(湯立)、6月15日(八坂神社の祇園祭)、9月13日(十三夜)、及び陽暦11月27日(八郷廻りの御出)、12月22日(稲荷神社の冬至祭)である。 神職は、天正以降、小山家譜代久楽持家の世襲である。 天地のつきることなく縁なす このふるさとの神をしぞおもう 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
網戸城跡 網戸城は思川と巴波川を自然の砦とする面積約10.8ヘクタールの平城でした。 築城は鎌倉時代(1185−1333)の初めで、初代城主は網戸十郎朝村です。結城家出身で、父は結城朝光、寒河尼(小山政光の妻・頼朝の乳母・地頭職)を祖母とし、結城家領の網戸郷を治めました。 網戸氏は代々の城主を継承しましたが、南北朝(1336−92)の争乱で、重朝が奥州で討死にし、子の村重は結城合戦(1440−4)で敗れ、会津の葦名氏の家臣となり遂に廃城となりました。 城址は大字網戸字追切・折本の両字にわたり、西城・中城・外城・御古座・陣屋、その他御城沼・しらじ沼と称する城囲堀などの地名が残っています。城址には網戸神社・旧網戸小学校跡・称念寺(寒河尼と朝村の墓所)があります。 社頭掲示板 |
網戸神社 当社の主祭神、田心姫命(たごりひめのみこと)(水運の神)をいつ頃勧請したか、 未だ明らかではないが、社殿の再建は、平城天皇の御代、大同元年(西暦806)10月28日である。 醍醐天皇の御代に、延喜式内に列したともいわれたが、詳らかではない。 天慶2年、藤原秀郷は、平将門追討に際し当社に祈願し、戦勝の砌、金百貫文を奉納した。 源頼朝も、文治3年、小山政光の妻、寒川尼を当地方の地頭職に任じ、当社に領地を寄進した。 以来、尼公をはじめ、歴代の網戸城主の崇敬も篤く、小山家の定紋「左二ツ巴」を、当社の神紋としている。 この頃、藤原一族の祖神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)(人神の間をとりもつ神)を併せて祀った。 江戸時代、後光明天皇の頃より、寛政・文政にかけて、社格問題その他で揺動し、かつ曲折した。 かくてその後、古河藩の治下にあっては、在郷の篤志家等が、神官を輔翼して、当社を護持し、維新を迎えた。 明治新政府は、国家神道の観点から、神社の再編成をなしたが、当地方は大幅に遅れた 大正3年5月20日、渡良瀬川改修工事の一環として堤防拡幅がなされ、当社は、本宿二四四八番地の千古の杜より、旧城内に遷宮した。 この年の8月19日、沼ノ台の浅間神社、庚申塚の皇宮神社、高揚の熊野神社、折本の奥瀬神社、本宿の八坂神社、大境の神明宮を合祀し、既存の水神宮、天満宮、千形神社、権兵衛稲荷神社、三峯神社等と共に境内神社とした。 神職は、天正以降、小山家譜代久楽持家の世襲である。 社頭掲示板 |