温泉神社
おんせんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】温泉神社 下野国 那須郡鎮座

   【現社名】温泉神社
   【住所】栃木県那須郡那須町湯本上ノ山182
       北緯37度5分59秒,東経139度59分56秒
   【祭神】大己貴命 少彦名命 (配祀)誉田別命
       『那須記』「罔象女温泉之明神ナリ」

   【例祭】10月8日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】舒明天皇の御代温泉を発見
       貞観5年(863)10月7日従四位下「日本三代実録」
       貞観11年2月28日従四位上
       文治元年(1185)那須与一屋島の戦いに「那須のゆぜん大明神」を祈念
       慶長11(1606)本殿造営
       明治初年郷社
       大正13年1月23日神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】温泉
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造亜鉛葺
       幣殿・拝殿・手水舎・社務所・職舎・宝物館

   【境内社】見立神社・愛宕神社・祖霊社・那須嶽神社
   【旧別当】湯王山観音寺

舒明天皇の御代、白鹿を追つて山に分入つた狩野三郎なる猟師が、「温泉の霊神」と云う「白衣の老翁」に遭遇して、彼の案内によつて那須岳の麓に温泉(鹿ノ湯)を発見し、「官社を造立して温泉ノ神霊ヲ奉崇」したのにはじまる。
那須湯のことは、天平10年(738)の正倉院文書にも記載あり、奈良時代には既に中央の官人が湯治に行く程有名であつたことが判る。この温泉の神を祀る当社もその頃には創立されていたであろう。
神社の北約200mには県指定史跡の殺生石があつて、九尾の狐の伝説を残している。


由緒

一、祭神
大己貴命 少彦名命  相殿 誉田別命
一、創立
第34代舒明天皇の御代(奈良朝)、湯本より南方約8kmの茗荷沢村の住人、狩ノ三郎行広は、小牛ほどの白鹿を追い求め、矢傷を負わせてなおも追い続けて雪不尽山(那須岳)の麓、霧生谷(元湯附近)に至った。濃霧に包まれ白鹿を見失ない茫然として佇んでいる時、岩上に白髪の老翁表われ、「吾は温泉の神なり。汝の求める鹿はかの谷間の温泉に浴しておれり、その温泉は万病をなおして甚だ効あり。鹿の浴するも手負いを癒さんがためなり、汝よろしく之を聞いて万民の病苦を救うべし。」と言い終りて消え去る。三郎白鹿を射止め、温泉を発見して神社を建立し、歳時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくしたと言う。これが本神社の創建である。
一、由緒
上代より温泉名を冠せし神社は、延喜式神名帳(西暦900年代)に十社を数え、当温泉神社の霊験は国内に名高く、奈良朝時代の貴族の温泉浴のことは正倉院文書によりても明らかである。従って神位次第に高まり、貞観11年(869)に従四位上を授けられた。後世那須余一宗隆西海に扇の的を射るに当り、当温泉神社を祈願し名声を轟かして那須郡の総領となるや領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、貞享3年(1686)6月19日、正一位に叙せられた。
現在那須郡内に約八十社の温泉神社を数うるのをみればいかにこの地方の信仰を集めていたかが推察される。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




延喜式内温泉神社

1.創立 
第34代舒明天皇天皇の御代(630年)狩野三郎行広、矢傷の白鹿を追て山中に迷い込み神の御教により温泉を発見し神社を創建。
温泉の神を祀り崇敬の誠を尽くした。狩野三郎行広は後年那須温泉開発の祖として見立神社祭神として祀られる。
一、祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
相殿 誉田別命(ほんだわけのみこと〕
大己貴命は別命大国主命(大国様)と申し上げ縁結び、商売繁盛、身体健全、温泉守護、の神として信仰されています。少彦名命は国土を耕し鉱山や温泉を開拓し薬等を作った神であり温泉の神として広く崇敬されている。誉田別命は八幡様とも申し上げ武運の神として尊ばれ勝運を祈る神である。
一、由緒
正倉院文書延喜式神明帳記載(927年)によると温泉名を冠する神社は十社を数える。上代より当温泉神社の霊験は国内に名高く聖武天皇の天平10年(738年)には都より貴人が那須に湯治に下った事が載せられている。従って神位次第に高まり清和貞観11年(864年)には従四位勲五等が贈られている。
文治元年(1185年〕那須余一宗隆、源平合戦屋島の戦に温泉神社を祈願し見事扇の的を射、名声を轟かせ後一門を挙げて厚く崇敬した。
建久4年(1193年)源頼朝那須原巻狩の折小山朝政の射止めし九岐大鹿角を奉納。
元禄2年(1689年)俳人松尾芭蕉「奥の細道」をたどる途中温泉神社に参脂。那須余一奉納の鏑矢等宝物の壮観、殺生石見物等が曽良の随行日記に載せられている。
大正13年(1922年)摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓を仰ぎ那須五葉松のお手植えを頂く。大正11年(1920年)久邇宮良子女王殿下御参拝、那須五葉松のお手植えを頂く。
一、例大祭
 10月8日 湯汲祭 献湯祭
 10月9日 献幣祭 神幸祭
一、本殿 慶長12年(1607年)那須資晴の建立
一、幣殿、拝殿 昭和60年10月竣工
一、社務所 平成2年10月竣工
一、見立神社 祭神天児屋根命 狩野三郎行広 温泉発見の功により合祀
  例祭 5月27日
一、祖霊社 日清、日露、大平洋戦争による氏子の戦没者並びに地元の神葬祭家の祖先を祀る
  慰霊祭 春秋彼岸並びに8月15日(中元祭)
一、愛宕神社 火産霊命(ほむすびのみこと)例祭4月24日
一、九尾稲荷例祭 2月初午
一、那須岳神社 (茶臼岳山頂鎮座)開山祭5月8日 閉山祭11月8日
一、清和天皇御製皇太后御歌碑 平成3年7月竣工
一、大島居 八幡型 高さ9.04m 奉納東京人見隆清
一、水琴窟 奉納東京福田鏡二
一、愛宕福神水 奉納 同 同
一、灯籠 六十四基

社頭掲示板



温泉神社

栃木県那須郡那須町湯本上ノ山鎮座
那須余一祈願社
延喜式内
温泉神社略記
一、祭神
相殿
 大己貴命(おおなむちのみこと)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 誉田別命(ぼんだわけのみこと)
一、創立
第34代舒明天皇の御代(奈良朝)、湯本より南方約8kmの茗荷沢村の住人、狩ノ三郎行広は、小牛ほどの白鹿を追い求め矢傷を負わせてなおも追い続けて雪不尽山(那須岳)の麓、霧生谷(元湯附近)に至った。濃霧に包まれ白鹿を見失ない荘然として佇んでいる時、岩上に白髪の老翁表われ、「吾は温泉の神なり汝の求める鹿はかの谷間の温泉に浴しておれり、その温泉は万病をなおして甚だ効あり。鹿の浴するも手負いを癒さんがためなり、汝よろしく之を聞きて万民の病苦を救うべし」ど言い終りて消え去る。三郎白鹿を射止め、温泉を発見して神社を建立し歳時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくしたと言う。これが本神社の創建である。
一、由緒
上代より温泉名を冠せし神社は、延喜式神名帳(西暦900年代)に十社を数え、当温泉神社の霊験は国内に名高く、奈良朝時代の貴族の温泉浴のことは正倉院文書によりても明らかである。従って神位次第に高まり、貞観11年(869)に従四位上を授けられた。後世那須余一宗隆西海に扇の的を射るに当り、当温泉神社を祈願し名声を轟かして那須郡の総領となるや領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、貞享3年(1686)6月19日正一位に叙せられた。
現在那須郡内に約八十社の温泉神社を数うるのをみればいかにこの地方の信仰を集めていたかが推察される。
(イ)延喜式神名帳記載下野国那須郡三位並小温泉神社
(ロ)三代実録記載貞観5年10月7日丙寅授下野国従五位上勲五等温泉神従四位下。
同11年2月18日丙辰授従四位下勲五等温泉神従四位上
(ハ)正倉院文書駿河国正税帳記載 依病下。下野国那須湯従四位下小野朝臣 上一口 従十二口
六郡別一日食為単漆拾捌日 上六口 従七十二口
(ニ)文治元年那須余一宗隆、源義経の平氏追討の軍に従い、屋島の海上に扇の的を射る時、冥目して故郷の那須湯泉神社に祈る。名声を挙げて後。神恩を謝して本殿、拝殿、神楽殿、神供所、玉垣、廻廊、鳥居に至るまで新たに建立して、一門をあげて厚く崇敬した。代を経て那須氏の摩下大関氏に領有されたが引き続き崇敬され社領二十石を奉献されて藩主自らの祭礼参拝が度々重ねられ明治にまで至った。 (ホ)皇族の宮殿下のご参拝は、大正3年6月梨本宮殿下を始めとし、大正11年久邇宮良子女王殿下、久邇宮殿下、同妃殿下、同信子女王殿下、続いて大正12年8月摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓を仰ぎ、境内に五葉松のお手植をいただき昭和9年9月李王根殿下、同妃殿下ご参拝(お手植え五葉松)その他の諸皇族宮殿下のご参拝も数十余度におよび尊崇の誠に浅からぬものがある。
一、幣殿、拝殿 昭和60年10月竣工
一、社務所 平成2年10月竣工
一、祭典(大祭)
祈年祭 2月17日
例祭 10月8日・9日
(イ)献湯祭(8日夜)湯元鹿の湯を始め各温泉の源泉を奉って感謝を捧げる祭。
(ロ)献幣祭(9日昼)藩主大関氏よりの奉幣の古式にならい神社本庁からの奉幣を行う祭。
(ハ)神幸祭(9日昼)宮司を始め祭礼関係者および獅子舞(町の文化財指定)その他約百名が神輿に供奉して各町内を神幸する祭
(ニ)新嘗祭 11月23日(勤労感謝の日)
一、境内社
見立神社(祭礼日、5月27日)温泉発見者、狩野三郎行広(人見氏始祖)の創建、天児屋根命を祀る。後温泉発見の功により狩野三郎行広合祀される。慶応元年6月正一位を授けられ更に昭和29年温泉神社と合併、境内社となる。
・祖霊社(祭礼日春秋彼岸並びに8月15日)日清・日露の戦争より太平洋戦争に至る氏子の戦没者と地元の神葬祭家の祖先を祀る。
・愛宕社・稚祇神社・山神社
・庖瘡神社・琴平神社・神明宮
・稲荷神社・天満宮
一、境外社
・那須嶽神社(開山祭5月8日閉山祭11月8日)温泉神社の奥宮、那須嶽の頂上に鎮座大己貴命、少彦名命を祀る。境内約80坪(264u)。嵐除、農業神として崇敬され、奥羽、関東地方よりの登拝者をみる。
一、境内地
総坪数約12000坪(4万u)でナラ、カエデ、ツツジなどの自然林の中に在り、盛夏にも涼風が絶えない。
社殿より北約300mの所に史蹟殺生石を望む。芭蕉が来拝したる折の句碑が自然石に刻されてある。「湯むすぶ誓も同じ石清水」
なお広前庭には摂政宮殿下(昭和天皇)、良子女王殿下(皇太后宮)お手植五葉松あり。
主なる宝物
卍大鹿角 一 温泉発見の折捕獲せるもの社紋はこれにちなむ。
狩ノ三郎行広公奉納
九岐大鹿角 一 建久4年四月右大将源頼朝奉納(那須野原巻狩の時小山朝政の射止めたもの)
鏑矢(1)
蟇目矢 一 那須余一宗隆公奉納
征矢 一
桧扇 一 屋島の戦に平家の女官玉虫の前より余一に贈られしもの。
古面 二 那須氏の本殿建立時鬼瓦としてつけたもの
三十六歌仙 (三十六面)
慶長十五年那須資晴公奉納
那須温泉 一 明国の心越禅師物並書
八景詩 元禄6年水戸光圀公奉納
金幣 一銘 奉寄附幣帛大関信濃守従五位下円治比氏増栄貞享4丁卯天9月吉祥日
戎衣 一 藩籍奉還の時、神恩を謝して、大関信濃守奉納
温泉神社と那須余一の関係
那須余一宗隆は、那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れ育った。
源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦ったのである。
史上有名な屋島の戦で扇の的を射て名声を上げ二十万石を頼朝公から賜わった。
温泉神社と余一との深いつながりを表わすものとして「平家物語」にこう記載されている。
余一屋島で祈ることば
「南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばせ給え……」と、凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進してその誠を表わした。
余一は不幸にして24才の短命で世を去ったが那須氏は代々厚く温泉神社を崇敬して慶長年間に至った。後那須地方は黒羽藩大関氏の有となったが、大関氏は那須七騎の勇将であった関係上藩主の信仰富に厚く、二十石を賜って明治に至ったのである。
那須温泉神社宮司 人見昇三 謹誌

由緒書



殺生石の由来

殺生石は昭和28年1月12日史跡に指定されました。
この由来の概略は、昔中国や印度で美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛の九尾の狐が今から800年程前の鳥羽天皇の御世に日本に渡来しました。
この妖狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に任え日本の国を亡ぼそうとしましたが、時の陰陽師阿部泰成にその正体を見破られて那須野ヶ原へと逃れてきました。
その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えましたので朝廷では三浦介、上総介の両名に命じ遂にこれを退治してしまいました。
ところが妖狐は毒石となり毒気を放って人畜に害をあたえましたのでこれを「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じていましたが、今津示現寺の開祖源翁尚和尚が石にこもる狐のうらみを封じましたのでようやく毒気も少なくなったと語り伝えられています。
芭蕉は元禄2年4月18日奥の細道紀行の途中にこの殺生石を訪れ
石の香や夏草あ各かく露あつし
と詠んでいます。
注意
殺生石附近は、絶えず硫化水素ガス等が噴気していますので風のない曇天の日は御注意下さい。
昭和52年10月25日
那須町
盲蛇石 その名の由来
 昔、五左ェ門という湯守が長くきびしい冬を越すために山に薪を採りに行きました。その帰り道五左ェ門がこの殺生河原で一休みしていると、2mを越える大きな蛇に出会いました。大きな蛇の目は白く濁り盲の蛇でした。かわいそうに思った五左ェ門は、これでは冬を越せないだろうと蛇のためにススキと小枝で小屋を作ってあげました。
 次の年、蛇のことを忘れなかった五左ェ門は、湯殿開きの日に小屋に来て蛇をさがしました。しかし、蛇の姿はどこにもなく、かわりにキラキラと輝く湯の花がありました。盲蛇に対する暖かい気持が神に通じ、湯の花のつくり方を教えてくれたのでした。
 その後、湯の花のつくり方は村中に広まり、村人は盲蛇に対する感謝の気持を忘れず、蛇の首に似たこの石を盲蛇石と名付け大切にしたのだそうです。

社頭掲示板




殺生石 その名の由来

昔、白面金毛九尾の狐という顔が白く、金色の毛を持ち、九本もの尾を持つ狐がいました。
この九尾の狐は、不思議な術を身につけたたいへん悪い狐で、ありとあらゆる悪事を行ない、アジア大陸で暴れまわり悪業のかぎりをつくした後,日本にやつてきました。
九尾の狐は玉藻の前という美しい女官に化け烏羽院につかえておりましたが、占師の阿部泰成に正体を見破られ那須野が原に逃げてきました。しかしここでも悪い事ばかりしており人々は打つ手もなく困りはてておりました。
そこで朝廷は三浦介を将軍とした八万余の軍勢をつかわし九尾の狐を追いつめ、神から授かつた鏑矢で射ると狐はたちまち大きな石となりました。しかし石になつた狐は近づく人々や獣はいうにおよぼず空飛ぶ烏までにも猛毒を振るっておりました。これを聞いた泉渓(せんけい)寺の源翁和尚が石に面つて大乗経をあげ続けると、毒石は三つに割れて飛び散り一つはここに残りました。人々はこの毒石を恐れ、殺生石と名付けたということです。

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