大前神社
おおさきじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】大前神社 下野国 芳賀郡鎮座
   【延喜式神名帳】荒樫神社 下野国 芳賀郡鎮座

   【現社名】大前神社
   【住所】栃木県真岡市東郷937
       北緯36度26分58秒、東経140度1分34秒
   【祭神】大己貴命 事代主命 (配祀)天照大神
   【例祭】11月9日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】神護景雲年中(767〜9)社殿朽頽によつて再建
       天正元年(1573)11月17日、戦乱で社殿は悉く焼失
       天正5年(1577)本殿を再建
       文禄2年(1593)正月復興
       慶長9年(1604)6月6日徳川家康八石の黒印を寄進
       慶安元年(1647)9月17日御朱印高八石
       明治6年6月郷社
       同10年8月県社
       同40年1月11日神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「大前権現」と称していた
   【公式HP】 大前神社
   【社殿】本殿権現造銅板葺
       幣殿・拝殿・祝詞殿・御假殿・祭具所・神札授與所
       額殿・神庫・神樂殿・神輿舎・手水舎・神饌所・社務所

   【境内社】恵比寿神社・皇大神宮・稲荷神社・雷神社・天満宮
       琴平神社・子安神社・淡島神社・大杉神社・荒神社・古聖神社
       愛宕神社・八坂神社・大物主命大国魂命神社・明眼神社・足尾山神社


五世紀頃に茨城県下館地域より五行川を北上してきた大和王権の一勢力によつて祭祀されたものであろう。
中世には宇都宮氏の臣清党の旗頭芳賀氏の崇敬するところであった。
【荒橿神社に関して】 大前神社祭神事代主命は式内荒橿神社の祭神を合祀と伝う。
『下野國誌』は、「鎭座祭神とも詳ならず、いつのころよりか大前神社の相殿に祀りて、大名持ノ命ノ男事代主ノ命なりといふ」としている。
天明3年(1783)の銅燈籠に「大前大權現・荒樫大明神・御宝前」と刻まれている。


由緒

社伝によれば、当大前神社は、芳賀郡と若色郷(若績郷)古聖(こひじり)、鏡田等地名の発祥地にして、社名祭神の霊跡に起源し、(社家別当代官の交代により、古代の創立の事、文蹟に詳かでないが)古くから大内庄三十三郷の総社として、宏大な社領の中に壮厳なる社殿を営み、大利根の支流鬼怒川、五行川、小貝川、三川の間湖沼に点在する田畑丘陵に恵まれ、農林漁労豊富な中心地に位置し、周辺非常なる繁栄の中に、北は氏家、南は常陸真壁郡一帯にまで崇敬圏が及び、延喜の制下野国十一社の内に撰定せられた式内名社である。 神護景雲元年社殿を再建す。常陸国真壁郡坂東の東叡山黒子千妙寺の末寺として現存する大前山般若寺縁起にも「当山は大前山金剛院と称し、創立は清和天皇の貞観四年慈覚大師の開基にして、古聖に建立千妙寺と号せり。野州芳賀郡鎮守大前神社別当也云々」とある通り、古くから神仏習合し、薬師如来を配し本地堂を営み、明治初年廃仏毀釈まで神仏混淆す。即ち代々の神職祠官祝詞を奏し玉串を奉り、別当は大般若経を転読し護摩を焚き、天長地久国家安穏、晴雨順次、五穀豊穰家内安全を祈願す。爾来、豪族城主代官と、地元氏子民の力を合せ、代々その都度改築修理再建を重ねて今日に至る。
降って、平将門殊に崇敬厚く、為に天慶2年関東に下りて戦を起すや、合戦勝利の祈願を真岡大崎大明神にかけて、其の勘行を五行川の水辺に為せりと云う。ついで65代花山天皇寛和元年、清原滝口蔵人吉澄(天武天皇皇子舎人親王8代の後胤)の子大監物清原高重天皇の勅勘を蒙り、芳賀郡に配流され、社領内の大内京泉に居館し当社を尊崇せられた。高重六世の子孫高澄は、若色の郷(当神社の東隣の地)に居城し、康平六年勅免に依り上京を許され、滝口蔵人に復職し、芳賀氏を称し始祖となり、当社を尊崇せられること益々厚きを加えた。芳賀高澄七代の孫、高親に至り、当社の南に御前城を築き従来より引続き22代芳賀十郎清原高定に至るまで、当社の社領守護職を兼ね、豪族城主として代々厚く尊信された。殊に現存する社宝の中で、十四代左兵衛尉芳賀禅下入道清原高名は、観応2年北朝足利氏の武将として戦功あり、南北和議に際し、当社に平和祈願の為に太刀一振を寄進す。天正16年23代清原高継は、真岡の東台地(現在の城山真岡小学校敷地)に芳賀城を築くに先だち、当社別当大前山般若寺能海に写筆させた平家物語大前神社本十二巻を同年八月寄進し、平和祈願の為奉納す。更に高継は、これより先天正元年11月17日兵火により社殿炎上し、悉く烏有に帰したのを嘆き、仮殿のままなりし当社本殿並に本地堂改築の大事を氏子と共に進め、文禄2年正月完成した。慶長の始め24代芳賀高武山形に去り、芳賀城主欠所と同時に、境内と鏡田、芳賀沼、古聖を除く社領の大半を没収せられ、式微となったが、徳川家康公は、当社の由緒を重んぜられ、慶長9甲辰年所領丈量の際伊奈備前守忠次をして当社に黒印八石を寄進せられ、寛永4年稲葉佐渡守正成初代城主として越後国糸魚川より入城するや、篤く当社を崇敬せられ、未完の工事を受継ぎ大補修せられたとも云われる。
稲葉正成正勝父子二代に亘りて、真岡在城の折は、殊に当社を尊崇し、神饌料(鏡田芳賀沼外)八石七斗三升七合を寄進せられ、慶安元年9月17日、三代将軍家光公日光社参に当り、朱印高八石を下され、次いで寛文10年11月17日領主稲葉美濃守正則(当時相州小田原在城、小田原侍従と称す)より、先規の神饌料、除地状を下附され、従前より式微となったが、漸く維持を完うし、拝殿の再建工事を進め、氏子民と力を合せ、元禄の始め未完ではあったが現在の如く完成を見た。尚、屋根葺替の外重なる修繕は、宝永2年(本殿彫刻完成)、享保(本殿拝殿鳥居)、宝暦(拝殿)、享和2年(拝殿)、天保10年(本殿)、慶応2年(本殿)、明治23年(本殿)、大正3年(拝殿)、昭和24年本殿の修理屋根替の工事を致し、更に昭和55年より昭和の大修理を目論見氏子崇教者の寄進と栃木県真岡市の補助を合せて昭和61年4月9日本殿遷座祭、翌10日竣工奉祝祭を斎行、本殿、拝殿、祝詞殿、神輿殿、両部鳥居、瑞垣、参道等一新して現在に至る。
二宮尊徳、小田原城主大久保忠真の家老宇津家の所領桜町四千石復興の為物部桜町に派遣せられるや、復興事業遂行の為穴川上流大前堰に至り、真岡代官山内総左ェ門に乞い、当大前神社領、東郷陣屋手附を命ぜられ、天保14年57歳より嘉永3年64歳まで報徳仕法完成の歳月を大前神社別当神宮寺に仮寓し、陣屋に勤務し或は諸地方の仕法に着手助言を行う。在住の朝夕当社に参拝し、難工事の大前堰と穴川の改修を完了す。
明治6年郷社、同10年8月県社に昇格、明治25年8月内務省より、古社寺保存資金下附、昭和9年11月恩賜幣帛料下賜せらる。昭和21年宗教法人令により登記する。宗教法人法施行により継承登記し現在に至る。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




延喜式内大前神社 ご本殿

この本殿は、桃山時代末期文禄2年(1593年)に建てられました。
見事な彫刻の数々は、宝永4年(1707年)名工藤田孫平治を棟梁として彫られたものです。このあと、藤田孫平治は、成田山新勝寺の三重塔の彫刻も担当されました。
本殿の回りは火防の意味を込めて水神である二十四の龍頭が、陰陽和合の形態で神様をお守りしています。
本殿東側壁の上部には、当社ご祭神の使いである鯉にちなみ、「鯉に乗る仙人」「玄武を司る仙人」等、北側には、「香を楽しむ仙人」「薬の仙人」等、西側には、大国様恵比須様にちなみ、「因幡の白兎」「魂を生む仙人」「雅楽を奏する仙人」等々の華麗な彫刻が彫られています。

社頭掲示板



大前神社由緒沿革概要書

1.鎮座地  栃木県真岡市東郷937番地
2.御社名  大前神社(おおさきじんじゃ)
3.御祭神  大己貴命(大国主命)、事代主命
配祀 天照皇大神、八百万神
4.境内地  7526坪
5.、建造物  本殿、拝殿、祝詞殿、社務所、神符守札授与所並びに祈祷受付所、神楽殿、額殿、神庫、手水舎、鳥居四基、銅燈籠一基、石燈籠五基、会館講堂
6.文化財  栃木県指定本殿、拝殿、両部鳥居、銅燈籠、大刀一口(観応3年、清原高名寄進)
大般若経六百巻(明徳3年11月、別当代官大江宣村寄進)
平家物語大前神社本十一巻(天正16年、清原高継寄進)
その他の文化財、大黒天、恵比寿木彫各一体、元禄6年絵図面一幅、延喜式享保本五十巻、
大日本史  百巻、その他大々神楽面一式、刀二口等
7.由緒沿革概要 別紙の通り
8.氏子  四千戸崇教者五千戸
9。祭日  祈年祭  3月28日
夏祭末社八坂祭  7月21日〜23日(真岡市内夏祭)
夏越祭(大祓) 7月31日
七五三祭 11月15日
例大祭 11月9日、10日両日
新嘗祭 11月27日
歳旦祭、節分講社祭、その他国の祝日祭
由緒沿革
社伝によれば、当大前神社は、芳賀郡と若色郷(若績郷)古聖、鏡田等地名の発祥地にして、社名祭神の霊跡に起源し、(社家別当代官の交代により、古代の創立の事、文蹟に詳かでないが)古くから大内庄三十三郷の総社として、宏大な社領の中に壮厳なる社殿を営み、大利根の支流鬼怒川、五行川、小貝川、三川の間湖沼に点在する田畑丘陵に恵まれ、農林漁労豊富な中心地に位置し、周辺非常なる繁栄の中に、北は氏家、南は常陸真壁郡一帯にまで崇敬圏が及び、延喜の制下野国十一社の内に撰定せられた式内名社である。
神護景雲元年社殿を再建す。常陸国真壁郡坂東の東叡山黒子千妙寺の末寺として現存する大前山般若寺縁起にも「当山は大前山金剛院と称し、創立は清和天皇の貞観4年慈覚大師の開基にして、古聖に建立千妙寺と号せり。野州芳賀郡鎮守大前神社別当也云々」とある通り、古くから神仏習合し、薬師如来を配し本地堂を営み、明治初年廃仏殿釈まで神仏混淆す。即ち代々の神職祠官祝詞を奏し玉串を奉り、別当は大般若経を転読し護摩を焚き、天長地久国家安穏、晴雨順次、五穀豊穣家内安全を祈願す。爾来、豪族城主代官と、地元氏子民の力を合せ、代々その都度改築修理再建を重ねて今日に至る。
降って、平将門殊に崇敬厚く、為に天慶2年関東に下りて戦を起すや、合戦勝利の祈願を真岡大崎大明神にかけて、其の勘行を五行川の水辺に為せりと云う。ついで65代花山天皇寛和元年、清原滝口蔵人吉澄(天武天皇皇子舎人親王八代の後胤)の子大監物清原高重天皇の勅勘を蒙り、芳賀郡に配流され、社領内の大内京泉に居館し当社を尊崇せられた。高重六世の子孫高澄は、若色の郷(当神社の東隣の地)に居城し、康平6年勅免に依り上京を許され、滝口蔵人に復職し、芳賀氏を称し始祖となり、当社を尊崇せられること益々厚きを加えた。芳賀高澄七代の孫、高親に至り、当社の南に御前城を築き従来より引続き22代芳賀十郎清原高定に至るまで、当社の社領守護職を兼ね、豪族城主として代々厚く尊信された。殊に現存する社宝の中で、14代左兵衛尉芳賀禅下入道清原高名は、観応2年北朝足利氏の武将として戦功あり、南北和議に際し、当社に平和祈願の為に太刀一振を寄進す。天正16年23代清原高継は、真岡の東台地(現在の城山真岡小学校敷地)に芳賀城を築くに先だち、当社別当大前山般若寺能海に写筆させた平家物語大前神社本十二巻を同年8月寄進し、平和祈願の為奉納す。更に高継は、これより先天正元年11月17日兵火により社殿炎上し、悉く烏有に帰したのを嘆き、仮殿のままなりし当社本殿並に本地堂改築の大事を氏子と共に進め、文禄二年正月完成した。慶長の始め24代芳賀高武山形に去り、芳賀城主欠所と同時に、境内と鏡田、芳賀沼、古聖を除く社領の大半を没収せられ、式微となったが、徳川家康公は、当社の由緒を重んぜられ、慶長9甲辰年所領丈量の際伊奈備前守忠次をして当社に黒印八石を寄進せられ、寛永4年稲葉佐渡守正成初代城主として越後国糸魚川より入城するや、篤く当社を崇敬せられ、未完の工事を受継ぎ大補修せられたとも云われる。
稲葉正成正勝父子二代に亘りて、真岡在城の折は、殊に当社を尊崇し、神饌料(鏡田芳賀沼外)八石七斗三升七合を寄進せられ、慶安元年9月17日、三代将軍家光公日光社参に当り、朱印高八石を下され、次いで寛文10年11月17日領主稲葉美濃守正則(当時相州小田原在城、小田原侍従と称す)より、先規の神饌料、除地状を下附され、従前より式微となったが、漸く維持を完うし、拝殿の再建工事を進め、氏子民と力を合せ、元禄の始め未完ではあったが現在の如く完成を見た。尚、屋根葺替の外重なる修繕は、宝永2年(本殿彫刻完成)、享保(本殿拝殿鳥居)、宝暦(拝殿)、享和2年(拝殿)、天保10年(本殿)、慶応2年(本殿)、明治23年(本殿)、大正3年(拝殿)、昭和24年本殿の修理屋根替の工事を致し、更に昭和55年より昭和の大修理を目論見氏子崇教者の寄進と栃木県真岡市の補助を合せて昭和61年4月9日本殿遷座祭、翌10日竣工奉祝祭を斎行、本殿、拝殿、祝詞殿、神輿殿、両部鳥居、瑞垣、参道等一新して現在に至る。
二宮尊徳、小田原城主大久保忠真の家老宇津家の所領桜町四千石復興の為物部桜町に派遣せられるや、復興事業遂行の為穴川上流大前堰に至り、真岡代官山内総左エ門に乞い、当大前神社領、東郷陣屋手附を命ぜられ、天保14年57歳より嘉永3年64歳まで報徳仕法完成の歳月を大前神社別当神宮寺に仮寓し、陣屋に勤務し或は諸地方の仕法に着手助言を行う。在住の朝夕当社に参拝し、難工事の大前堰と穴川の改修を完了す。
明治6年郷社、同10年8月県社に昇格、明治25年8月内務省より、古社寺保存資金下附、昭和9年11月恩賜幣帛料下賜せらる。昭和21年宗教法人令により登記する。宗教法人法施行により継承登記し現在に至る。
主要建造物奉納者
第一鳥居 大正8年岡部兵七氏  第二鳥居明治22年久保六平氏
第三鳥居(両部) 享和2年10月  第四鳥居 謄畑寅造氏
額殿 氏子中より  神庫 天水桶 昭和15年渡辺伝四郎氏
社務所 昭和30年氏子崇敬者一般より  講堂昭和45年氏子崇敬者中より
石燈籠 貞享四年寄進神楽殿 安政7年移転改築氏子崇敬者より
手水舎 昭和15年謄畑寅造外氏子中より
石燈籠 一対昭和55年塚田常吉・英一郎父子寄進
札所兼諸願受付所 文化財保護奉賛会摂社八坂神社(荒神社)同奉賛会
参道 花鋼石改修 同奉賛会恵比寿木彫田村豊幸氏寄進
日本一えびす様「真岡大前恵比寿」摂社恵比寿神社恵比寿講・氏子崇敬者一般より

社頭掲示板



大前神社

大前神社は1500年有余の歴史を誇る延喜式内の名社です。ご祭神は福の神様のだいこく様とえびす様で、開運招福の願いを叶えてくれる神様です。 欝蒼とおいしげる杜には、安土桃山時代末期に造られた、 極彩色の彫刻豊かな御本殿がそびえたち、名工藤田孫平治や島村円哲工人達の足跡が偲ばれます。
大前神社の長い歴史を紐解くと、武将平将門も戦の勝利を祈願し、太平記に見える坂東荒武者・紀清両党の芳賀氏が 崇拝し、天正16年には、平家物語(大前神社本)を神前に奉納されました。そして、二宮尊徳大人も 当社のみそぎ所に籠もり大前堰を改修し、茨城県にもおよぶ大事業を完成されましたことは有名です。
御祭神は大己貴(おおなむち)神またの名を大国主・大物主・大国魂など多くのお名前があり一般的にはだいこく様と呼ばれる大国様とえびす様と親しまれる事代主神をお祀りしております。大国様は国土経営に当たり大きな袋に「もの種」を沢山詰め、背負いながら国内の農業をはじめとするあらゆる産業・生活文化の種を配り歩かれました。 悪しき者を正しき道に導き、医療の道や殖産興業を教えて歩かれたと申します。
開運招福の神様であり、健康や病気平癒をはじめ縁結び・五穀豊穣・厄除け災難除け・家内安全・産業発展など様々な御利益を与えて下さいます。 えびす様とも呼ばれる事代主神は、大国様のお子様にあたる神様で、河川海洋の守護神であり、漁業安全・大漁豊漁をはじめ商売繁盛・家業繁栄などの御利益を下さいます。 このお二人の神様を二福神と申すこともあるように、多くの御利益と教えを与えて下さいます御祭神であります。

公式HP

大前神社

だいこく様・えびす様
千五百有余年の歴史を誇る延喜式内社。
御祭神はだいこく様(大国主神)とえびす様(事代主神)であり、健康・えんむすび・開運・病気治し・家内安全など多くの御神徳がある。
御本殿は桃山時代末期に再建。
極彩色豊かな彫刻が施され、栃木県の文化財に指定されている。
境内東には五行川が流れ、初春には寒紅梅が咲き、平成元年日本一えびす様が建立された。
大祭に奉納される神楽は真岡市の文化財で、だいこくえびす舞や天狐白狐の舞、天の岩戸舞などで構成される。

栃木県神社庁



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