旱越の折六カ所の溜りの水を諸作のもとに灌いだところ、水が湧き出したので六つの祠を建立したのでこの土地を六ケ井の郷と呼ぶようになつた。中古以来六ケ井が村井と改称、室町末期戦火にあつたが、村人の協力により復興した。その時女体権現と改称した。 現在胸形神社も式内社であると主張しているが、こちらが村檜神社であるとの確証はない。村井の地名の起こりである六つの井戸は現存するが使はれていないし、又今は信仰の対象とはなつていない。 |
胸形神社略記 一、神社名 胸形神社 一、鎮座地 鹿沼市村井町1088番地 一、御祭神 田心姫神(相殿)天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、可美葺牙彦舅神、天常立神、国常立神、豊酉淳神、天照皇大神、天恩穂耳神、瓊々杵神、彦火火出見神、鵜草葺不合神、大日貴神、少名彦名神、日本武神、鎌倉権五郎景政 一、祭儀 例祭10月19日 祈年祭2月17日 新嘗祭11月2日 一、由緒 創立年代未詳なれども、社伝によれば往古旱魃続き五穀の苗も枯れ老若男女悲嘆せり。此の時農民は天地の神祇に雨を乞うと共に五穀の種子を盡かせじと六ヶ所の溜まりの水を諸作のもとに灌ぎしが、この溜まり水汲めども汲めども盡せず湧き出でたり。是ぞ天地の大神の恵み給いし無盡水、此の御神徳を仰がんとして六つの祠を建立したのが当社の起源なり。 此の水は常に汲むことを堅く禁じ崇敬し、後世までもこの由来を忘れぬために此の土地を六ケ井の郷と名づけたり。中古以来村の名は六ケ井が村井と改まる。足利末来の頃宇都宮氏と鹿沼氏との戦いに当地は戦場となりし事あり。その時神殿、寺院民家に至るまで悉く兵火に罹りたるも唯一の神鏡遺りしを、後に村民相談し再び祠を建て漸く旧観に復す事を得たり。その時より女体権現と改称せり 明治2年胸形神社と改称す 境内地1076坪は明治初年上地して国有に帰し昭和21年神社制度変革に伴い同23年3月大蔵省に譲与の申請を成し昭和24年7月29日付を以て譲与の許可書を交付された。 一、境内地 1076坪、本殿約一坪、拝殿八・七五坪、本殿上屋七・五坪、社務所一五坪 一、境内社 豊年神社(大年神)愛宕神社(加具土神)八坂神社(素佐男神)琴平神社(大国主神)天満宮(菅原道真)寵神神社(火産霊神)疱瘡神社 社頭掲示板 |