川の東岸近く、住宅地の中に鎮座する。 社記によると、推古天皇御代、大和国石上神宮の石窟から真勾玉241個を奉戴遷祀したともされている。 当社では、本殿に奉齋してある御霊代が水晶の勾玉であり、毎年12月に御召替と称する神事が行われていた。 御霊代(神体)は、饒速日命が首にかけていた勾玉とされます。 南西1Kmに合祀された旧蟻無神社境内に「野間の大けやき」がある。 この木はもともと、紀貫之をまつった蟻無宮(ありなしのみや)神社の神木だった。明治40年、神社は野間神社に統合されたが、木だけは残された。 |
野間神社 当社は、第三十五代推古天皇13年(西暦605年)即ち、今より約1400年前、勅命に依り大和の布留神廟(今の石上神宮)から、布留道を通り奉遷したのである。故に当社を布留宮とも申。 昔は官幣社の待遇を受けていた。東能勢歌垣田尻吉川の総社でもあった。大祭には国より遣幣使も派遣されていた有名神社である。 その証として第六十代醍醐天皇の御代(西暦927年)式内社として延喜式の中に記してある。 ご祭神は饒速日命(布留大明神)で、神霊代は命が顔に懸けされていた勾玉である。 命は神武天皇の創業の際に、子・可美真手命と共に兇族長髄彦を討って大業を翼貰をし給うた軍神であり、又、天降りの際、天神(高見産土神)より賜りし十種の神宝を以って諸病を平癒し、諸難を避け給う御神徳を兼ね備えられた神でもある。 当社は天正8年(1580)織田信長の命を受けた織田信澄が乱入し社殿は大破し古文書は焼失す 9月能勢頼道討死後20年間島津義久の領地となる 天正19年社殿大修理せり 其の後慶長5年(1600)能勢頼次が関ヶ原合戦の功により再び能勢家の領地となるや一早く社殿を営繕したのである 今の本殿は即ち是なり 明治40年(1907)神社合併令により村内神社二〇体を此の境内に末社として奉遷す 此の側の「菅広房」の寄贈になる野間社の石碑は第114代中御門天皇の御代(1720)八代将軍徳川吉宗の時大岡越前守の認可を得て摂津の国で式内社の中の由緒正しき神社(大阪府下(13)兵庫県下(7))へ下附されたのである(当時二〇両) 大祭は10月14、15の両日で神輿(1)地車(6)□々頭(1)が出て、盛大に施行されている 昭和56年(1981)12月吉日 社頭掲示板 |
野間神社 当社は、地黄字森畑に鎮座する「延喜式」内の神社である。「延喜式」神名帳能勢郡の条に、「野間神社」とある。当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の13年(605)9月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている。また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜2甲午年(1054)に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈艮県天理市の石上神宮の分霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通つた道)「大原越え」を通り、「・・・地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。 祭神は、「饒議速日命」、「宇賀御魂神」、「菅原道真」、「草野姫命」、「野見宿根」となつている。「饒議速日命」は物部氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞していた野間の連は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域、一帯は、物部氏の勢力下にあつて、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。 野見宿ねは、士器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿弥を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より士器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師氏の祖として祭祀されたと考えられる。 社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より分霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている。平安時代の承和年中(834〜48)より、当地は調停典薬寮領の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。 さらに平安時代の長暦元年(1037)、能勢採銅所の設置により、布留社(野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅処権預(奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。 その後の戦乱期には、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(1573〜92)織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正16年(1588)より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となつた。 天正19年(1591)9月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を「東郷村誌」にみると、各村々の人数は合て1479人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。 その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。 以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(1658〜61)に拝殿・大鳥居を造立、元文元年(1736)には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の右側に建立された。明治40年には、領内最奇りの神社9社が当社に台祀された。 祭事としては・古来より毎年12月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に10月秋の大祭には、近郷稀な「たんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りがとり行われている。 平成15年3月 社頭掲示板 |
野間の大けやき 俗称 蟻無のけやき 野間の大ケヤキ(国) 野間稲地の旧蟻無神社境内にあって神木として保護されてきたもので、昭和二三年、国の天然記念物に指定された。幹回り10.75メートル、高さ約33メートル、枝張り東西42メートル、南北38メートル、樹齢は1000年以上と推定され、樹勢はいまでも旺盛である。梢にはたくさんのヤドリギがみられる。 社頭掲示板 |
野間神社 当神社は、木野川(野間川支流)の東岸近く、地黄森畑に鎮座する。 社記によると、推古天皇御代、大和国石上神宮の石窟から真勾玉241個を奉戴遷祀したともされている。 一説には御霊代(神体)は、饒速日命が首にかけていた勾玉とされる。 当社では、本殿に奉齋してある御霊代が水晶の勾玉であり、毎年12月に御召替と称する神事が行われていた。 (現在は途絶えている → 復興の予定あり) 南西1Kmに合祀された蟻無神社境内に「野間の大けやき」がある。(樹齢約千年) この木はもともと、紀貫之を祀った蟻無神社(ありなしじんじゃ)のご神木だった。 一説には、蔵王権現(大山祇命)をお祀りしたともいわれている。 明治40年、蟻無神社は野間神社に合祀され、その後大けやきとともに境内も野間神社に寄贈・奉納された。 公式ブログ |
野間神社 野間は仮字也○祭神詳ならず○東郷地黄村に在す、今布留社、(摂津志)有無宮(摂津群談)と称す、野間村と共に祭祀に預る、 類社 加賀國加賀郡野間神社、伊豫国野間郡野間神社、(名神大) 神社覈録 |
郷社 野間神社 祭神 饒速日命 宇賀御魂神 菅原道眞 一説野見宿禰を祀るといふ(度曾延経神名帳考証)創祀は推古天皇乙丑年9月28日大和国石上峰哮より 遷し祀りしに起る(社記)、醍醐天皇延喜の制小社に列る、能勢郷三座の一なり(延喜式)、俗に布留宮又有無宮といふ(摂津名所図会)、御神体は水晶にして毎年12月召替の神事といふあり、紙を以て表服を作り之を奉る、式毎に一の文書を納む、其写左の如し、 大永7年12月12日御召替 布留社御神体 西の御前一箱七所 東の御前一箱十八所三十 中の御前一箱三十三所三十 右誰先例所注状如件 大永7年12月12日相講師 天和元年酉年12月12日 西御神五社 西門七社 中三十四 中三十三 東三十四 東七十四 天和元辛酉歳 右如件 一郷本社八十一社 東御前五十九社 西御前四十二社 元文元辰年12月8日 明治8年 御本社一ノ宮三十七社 二宮二十八社 東ノ方御本社三十二社 二ノ宮四十八社 西ノ方御本社二十七社 二ノ宮三十七杜 天正年間、織田信澄能勢に乱入せし時、兵火にかゝり、古文書焼失し、右御召替の書類のみ僅に存せり、天正8年能勢頼幸の戦死せしより、此地島津兵庫頭の領となり、郡代戸部掃部兵衡、福島新兵衛、天正19年4月、修営せし事棟札に見えたり、慶長5年関原役の功により、旧地を與へられたる時、社殿を修築せし事も棟札に見ゆ、明治40年、当郡田尻村村社天神社及同村村社稲荷神社を合祀せり、境内1840坪、(民有地第二種)社殿は、本殿、拝殿を備ふ。 明治神社誌料 |