久佐々神社
くささじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】久佐々神社 摂津国 能勢郡鎮座

   【現社名】久佐々神社
   【住所】大阪府豊能郡能勢町宿野274-1
       北緯34度58分35秒,東経135度25分8秒
   【祭神】賀茂別雷神 (合祀)猿田彦命 大歳神 速素戔嗚尊 応神天皇
       『神社覈録』『特選神名牒』天穂日命

       元々は土師部の祖神である天穂日命を祀っていたと思われる

   【例祭】5月16日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】和銅6年(713年)創建
       享保18年(1733)8月正一位久佐佐大明神と復称
       明治5年(1872)郷社
       同41年5月神饌幣帛料供進社の指定

   【関係氏族】土師部氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「宿野大明神」と称していた
   【社殿】本殿春日造
       拝殿・神輿庫・祭器庫・長床・社務所

   【境内社】
   【宮寺】境外の宮寺として真言宗の聖草山明王院がある

大路地川の北岸近く府道54号線に面して鎮座している。
社名は古来から地名に因んで久佐々神社と称したが享保年間(1720年ごろ)、宿野大明神と改め、更に享保18年8月、正一位久佐々神社と復称した。
境外の宮寺として眞言宗の聖草山明王院がある。本殿裏に大杉がある。


由緒

当社は和銅6年(713年)創建、延喜式内の能勢三社の一つの神社で官幣小社に列せられ、昔から大宮と称し、近郷の崇敬厚く、草々明神とも云われた。社名は古来から地名に因んで久佐々神社と称したが享保年間(1720年ごろ)、宿野大明神と改め、更に享保18年8月、正一位久佐々神社と復称した。
地名の久佐々は「日本書紀」巻十四巻雄略天皇の条「摂津国来狭々村云々」と見え、「続日本紀」巻六元明天皇の条「玖左佐村山川遠隔道路嶮難、由是大宝元年始建館舎、雑務公文准一郡例云々」とあり、当社はこの館舎の地であり、郡司によって奉斎せられたものである。
明治5年、郷社に列せられ、同41年5月、神饌幣帛料供進社の指定をうける。明治40年、大字宿野、大里、柏原、片山、平通、下田の各神社をここに合祀した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




久佐々神社

延書式内社で賀茂別雷神を祭神としている。
「日本書紀」「続日本紀」にある来狭々村、玖左佐村はこの付近を中心とした地域で能勢郡の郡館が設けられたところであり、また贄土師部がいて朝廷の膳部の清器を献上していたので、古くは土師部の祖天穂日命を祀っていたともいう。
境内には立春に花開く一華草(セツブンソウ)かあって江戸期叡覧の後尚書に命じて記されたとある。
能勢町観光協会
昭和60年5月立

社頭掲示板




久佐々神社

当社は、和銅6年(712)に創建されたと伝えられる「延喜式」内の神社である。「延喜式神名帳」能勢郡の条に「久佐々神社」と見え、他に「久佐々大明神」、「賀茂久佐々大明神」「宿野大明神」「草々明神」など、多くの呼び名があるが、これは往古より、広い地域まで知られた「大宮」であることに起因するのであろう。 しかし当初の社名について、「日本書記」雄略天皇17年3月2日の条に、
「詔土師連等使進応盛朝夕御膳者清器者於是土師連祖 吾笥仍進 摂津國来狭村(中略)私民部名曰贄土師部」とある。
これは、「天皇が朝夕の食事に使われる食器を、献納する詔がくだり、土師氏の祖である吾笥が、摂津國来狭村などに居住している部民を、贄土師部(土器を作る職人)として朝廷に献上した」というのである。文中の「来狭村」は当地に比定ざれ、社名もこれに拠ると考えられる。
祭神は「加茂別雷神」のほか、末社の「大国主命」、「豊受比売命」「事代主尊」「宇賀御魂神」「応神天皇」と、明治40年含祀の神々となっている。主神の「加茂別雷神」については、大宝元年(701)の能勢郡の設置に伴い、能勢郡郡司となった神人為奈麻呂が、賀茂氏とは同祖であることから、祭祀された可能性が大きいと思われる。
また、当社の文書断簡に「祭神天穂日命、御合殿祭神賀茂別雷神、右大同年間(806〜9)奉祭ス」とあり、「天穂日命」は、前述の贄土師部の遠祖であることから、当初は「天穂日命」が奉祭されていたように思われる。
このように当社は、悠久の大化前代から土地を開いた祖神や先人を土産神として祀り、当初は社名・村名を同じくし、以後千有余年の星霜を重ねてきた。近世では宮寺として真言宗「寛学寺」があり、当寺の別当が代々寺社の祭事をつとめた。
正面に拝殿、奥には春日造桧皮葺の本殿(安永九年-1780年8月1日再建)左側には末社、合祀社があり、右には極めて希少な「長床」があり、ありし日の奉納芝居の盛況を今に伝えている。境内には、昔も今も代わりない千戸の老杉老獪がうっそうと茂り、少なくなった鎮守の森をここで見ることができる。春まだ浅いころ、当社境内に花を咲かせる「一華草」(せつぶんそう)は、珍奇な草花として帝に献上され叡覧あって記録せられたと伝えられる。

社頭掲示板



久佐佐神社

久佐佐は假字也○祭神天穂日命○宿野村に在す、今佐々宮と称す、○日本紀、雄略天皇17年3月丁丑朔戊寅、詔土師連等、使進応盛朝夕御膳清器者、於是、土師連祖吾笥仍進摂津國来狭々村、私民部、名曰贄土師部、」今も宿野土器名産也、』続日本紀、河辺郡玖佐々村(全文郡の下に出)姓氏禄、(大和國神別)贄土師連、天穂日命十六世孫意富曾婆連之後也、。

神社覈録



郷社 久佐々神社

祭神 加茂別雷神 猿田彦神 素戔鳴尊
鎮座の年代詳かならすと雖も、京郡加茂神社の威漸く盛大に趣くと共に、当社も郷民の尊崇を加へ、平城天皇大同年中には当地の氏神となり、氏子多かりしといふ。其頃社領凡一丁六反ありしが、後陽成天皇文禄3年、桑原治衛門検地の時、高入となり、其内二反八畝は除地なり又霊元天皇延喜7年永井市正検地の時皆高入となり、土人は之を草々明神と称す、摂津名所図会に曰く、
「当社の神籬の内に。一花草生ず、葉は蔦に似て、蕾僅に二寸許、玄冬塞中に初めて葉を生じ、立春の旦、花を開く、花形白梅に似て一茎一花なり、之を奇なりとして、菅家の雲客、此に来て称して寛文帝に奉る、叡覧の後尚書に命じて記さしめ給ふ、村民諺に曰く、一花発すれば。天下皆春を知るとは是なりと、此花夏に至れば、枯朽して叢に見えず、又根を求めて他地に植うる時は、花期を失うて榮えす云々、
明治6年郷社に列す、境内2200坪(官有地第一種)社殿は本澱、拝殿、祓殿其他神輿殿、倉庫、正面門、腕木門を備ふ。
来狭々日本書紀、「雄略天皇、詔土師連等、使進応盛朝夕御膳清器者、於是土師連祖吾笥、仍進摂津国来狭々村云々私民部名曰贄土師部」とあり、蓋来狭々は宿野の旧名なり。

明治神社誌料



摂津国INDEXへ        TOPページへ



順悠社