山田川の合流地点北に鎮座する。 社名は岐尼神降臨のとき土民臼の上に杵をわたし荒菰を敷いて迎えたことに始まるという。 当社には塔頭十坊が列らねられていたと伝えられている。これらは既に幕末期には成就坊のみを残して廃絶していたが、その成就坊も明治初年廃され、現在境内に成就坊遺跡の碑のみ残されている。 江戸時代に大塩平八郎の乱などに誘発されて起こった「能勢騒動」など能勢における歴史的大事件もこの岐尼神社が舞台となっている。 |
由緒 当社は其の創建の時代不祥なれども、延喜式に見えたる摂津國能勢郡岐尼神社にして、能勢郡神社仏閣由来に「嘉保2年2月乃西杵宮源政信建立」とあるは此時代に再建せしをいへるなるべし。乃をさかのぼる八百余年前、堀川天皇の時代に杵宮とも称せり。 元亀2年12月、織田信澄の乱入により当社は兵害に罹れること見えたり。其の後当地は慶長6年、太田和泉守の領地とする処となり、仝10年、領主太田和泉守手一の猪俣某を奉行となして枳袮社を建立せしと旧領主並に代々地頭役人記録に見えたるは、当社が再建の棟札に元禄5年11月、枳根大明神旧記に見えたり慶長10年の再建は、即ち現在の社殿にしてその後120年を経て享保12年に営繕をなせしことは枳根宮建立奉加帳の序及び仝年4月、枳根宮造営割付帳によりて推測せらる。明治40年2月11日、神饌幣帛料供進を指定された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
岐尼神社 能勢町森上の地に鎮座し「延喜式神名帳」能勢郡の条に岐尼神社とみえる式内社である。かつて森上のあたりは枳根荘の一部であったことから、「枳根・枳禰・杵宮」あるいは「杵大明神」とも呼ばれていた。祭神は「天孫瓊々杵尊」、中臣氏の祖神「天児屋根命」、大名草彦命の子「枳根命」、そして源満仲である。 瓊々杵尊といえば天孫降臨神話に登場する神で、岐尼神社にも天孫降臨の説話が伝来している。すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し荒菰を敷いて迎えたという。この「杵」、天下った「杵尊」のひびきから社名「きね」が起こったと考えられている。また、天下った丘はいまも「天神山」と呼ばれている。 社伝によれば、延暦元年(782)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家代々の御祈願所であったという。さらに祭神の一柱である「源満仲」は多田の地の開発領主であり子孫は清和源氏としておおいに栄えた。多田には満仲の家臣・一族らが入って開発治世につとめ、多田満仲が祭神として加えられたようだ。 森上のあたりは丹波と摂津の境目にあたり、戦国時代には清和源氏の流れをくむ小武士団西郷衆が割拠していた。そして、岐尼神社後方の山上に築かれた森上城には能勢氏の一族が入り、南方の摂津山下城主に拠る塩川氏、丹波の波多野氏らと対峙していた。天文14年(1545)波多野氏の攻撃で月峯寺が焼き討ちされ、つづいて天文18年には塩川伯耆守の侵攻にさらされた。塩川氏との戦いは「岐尼の宮合戦」と呼ばれ、森上城主能勢小重郎を大将とする西郷衆の勝利に終わった。討たれた塩川衆を葬ったあとが「多田塚」としていまに伝わっている。 その後、天正7年(1579)織田信澄の乱入によって、社殿は兵火に罹って焼亡、伝来していた古文書も失われた。関ヶ原の合戦を経て戦乱も落ち着いた慶長10年(1605)、社殿が再建され、さらに江戸時代の享保12年(1727)にも修復の手が入って現在に至っている。 社頭掲示板 |
岐尼神社 当社は、旧来枳根庄内にあって、能勢町森上の地に鎮座し、『延喜式神名帳』能勢郡の条には『岐尼神社』と見える。祭神は『天孫瓊々杵尊』、中臣氏の祖神である『天児屋根命』、大名草彦命の子『枳根命』と『源満仲』で、『岐尼・枳根・枳禰。杵宮』、或いは『杵大明神』と称していた。 『瓊々杵尊』といえば、天孫降臨の神話にある神であるが、ここにも天孫降臨の説話がある、すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えたという。『杵』、『杵尊』のひびきは社名の起因と考えられる。 また、天降った丘を今も『天神山』と呼んでいる。社記によると、延暦元年(782)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家代々の御祈願所であったという、また祭神に加わった『源満仲』については、多田の地に入部以来家臣の多くが当地に入り、開発治世にあたったその君恩を子孫に伝えるためといわれている。 当社で特筆すべきは、主神である『瓊々杵尊』の座像背後に、『奉勧請瓊々杵大明神至元卯九月吉日』の墨書である。『至元』という年号は中国元代のもので、我が国では南北朝時代の延元4年(南朝1339)、暦応2年(北朝1339)に当たり、在銘神像として稀に見る貴重な神像である。また『延文2年(1357)藤原輔女 清原 大般若経 奉納』と古記にある。 当社の北側背後には、中世の山城が並び築かれ、時に天文18年(1549)9月17日、山下城主塩川伯耆守と、それを迎え撃つ、枳根城主能勢小重郎との、『岐尼の宮合戦』、ついで元亀2年(1571)12月2日、織田信澄の乱入など、度重なる社殿の炎上によって古書類が焼失してしまった。しかし、戦乱のほとぼりがようやく去った慶長10年(1605)9月、太田和泉守が社殿の再建をなしとがえ、その後享保12年(1727)にも修復、この時の修復費用は『銀五貫八百八拾八刃壱分六厘、氏子=1948人』とあり、これが今に残る社殿である。 神宮寺であった白雲山神宮寺は、かつて十坊を数えたが、天正年間(1573〜91)の戦乱期に多くが断絶し、かろうじて成就坊のみが残り、ありし坊舎の面影を明治維新まで伝えたという。なかでも、江戸時代も後期になった天保8年(1837)7月に当社の社庭は能勢騒動打毀しの発起点となり、そのときに各村村にひびき渡った早鐘は、この成就坊の釣鐘であった。 明治維新による神仏分離、続いて一村一社の神社統一により、同40年十か村の氏神が岐尼神社に合祀された。また大正期にはいって、当社の社司を尋ねた御歌所寄人の阪正臣氏の歌碑が木陰の中に建っている。また、『歌枕名寄』に『枳根社』とあり、次の和歌が出ている。 『おのつから 神の心に ならわしの きねか宮居の 月そさやけき』 社頭掲示板 |
岐尼神社 大明山麓の森に鎮座する岐尼(きね)神社は「延喜式」神明帳の能勢郡の項に「岐尼神社」と記されている。以後社名については「岐尼・枳根・杵禰・杵大明神」とも記され、また、近郷では杵の宮とも呼ばれていた。 岐尼の神が社殿南側の小丘、天神山に降臨のとき、里人は臼の上に「杵」をわたし、荒狐をしいて迎えたといい、新殿を造ってここにお遷しし「杵の宮」と名付け祭祀したという。この伝承には「杵」という社名につながる意味がこめられている。 祭神は「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」「源満仲」などである。 延暦元年(782)創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、将軍家代々のご祈願所であったという。天下った丘を今も「天神山」と呼んでいる。御歌所寄人の阪正臣氏の歌碑が木陰に建っている。 能勢町HP |
岐尼神社 岐尼は假宇也○祭神詳ならず○枳根荘今西村に在す、今杵宮と称す、 神社覈録 |
郷社 岐尼神社 祭神 瓊々杵尊 天児屋根命 源満仲 猿田彦神 創祀年月分明ならず。醍醐天皇延喜の御式の小社に列す、能勢郡三座の一なり、(延喜式)満仲公を合祀せしは、公多田城に在りて家士多く此地に住居し君恩を子孫に伝へんとて崇め祀らしものなるべし神像は左折島帽子を着し太刀を佩きたまふ、天文年中塩川伯耆守能勢小重と合戦の時旧記悉く焼けしが、神像は叢に飛んで石上に在す事顕然たり、後太田和泉守再興す、土人の口碑によれば岐尼神初めて降臨の時村民臼上に杵を渡して居ゑ奉る、之によりて杵の宮とはいふ(名所図会摂津群談)明治6年郷社に列す、境内807坪(官有地第一種)社殿は本殿其他雨覆、神興庫、社務所を備へ老樹林立一見旧社の観あり、社家に伝へたる古歌あり。 おのつから神の心にならはしの、きねがみやいの月ぞさやけき(摂津群談) 明治神社誌料 |